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平将門・良文に関連のある妙見大菩薩について

「千葉伝考記」の「平良文の事」

承平元年(931)、常陸大掾国香と平良兼・良文・将門が争い、良兼・良文はたびたび国香の軍勢に敗退する。
7月染谷川の戦いでは、息災寺妙見菩薩が良兼・良文を助けたと伝える。

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息災寺(高崎市 妙見寺)のお姿札


良兼は妙見の尊体を求めるために、息災寺を訪れ、尊像を持ち去って良文の館に祀ると云う。

『妙見縁起絵巻』

承平元(931)年、将門・良文と平国香(良文の兄)が上野国府のすぐ近く、
上野国花園村(群馬県高崎市)の染谷川で戦い(染谷川の戦い)をくりひろげたといわれる。
結果として将門・良文は敗れ、わずか七騎で逃れてきたところを童子形の妙見菩薩に助けられたという逸話がある。
この「染谷川」は現在では川幅わずか2mほどの小川であり、この戦い自体も実際にあったかどうか疑問視されている。
将門と国香の常陸国蚕飼川の戦いをアレンジした伝承ともいう。

「将門記」には妙見菩薩と平良文は出てこない

天慶2(939)年4月17日、良文は奥羽でおこった反乱を鎮圧するため鎮守府将軍に任じられ、
乱を鎮圧して鎮守府(胆沢城)にとどまったという。『貞信公記抄』に天慶2(939)年4月17日、
出羽国の叛乱が朝廷に報告されている。出羽の俘囚の軍勢と秋田城司(源嘉生朝臣)の軍勢が戦い、
源嘉生の軍勢が敗れた。
続いて5月6日着の報告によれば、暴徒は秋田郡に乱入して官舎を襲って納めてあった稲を強奪。
百姓家に放火するという暴挙を働いた。朝廷は「陸奥ノ守」にも兵を出すことを命じている。
良文は兄たちと同様、鎮守府将軍として奥州に赴任したのかもしれない。

鎌倉幕府二代将軍・源頼家は「将門合戦章」(将門記らしい)をもとに、「将門絵巻」を作らせた。

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