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東京文化財研究所美術部のオープンレクチャー

真武の日本における妙見菩薩としての受容の講演は、先生の著作・日本の美術『中世の童子形』の中の妙見菩薩の例をさらに詳細に論じたもので、有意義なものでした。平安期までと鎌倉以降の妙見菩薩像の像容がまったく異なっているのは、中国において11世紀頃から道教神である玄武が亀と蛇が絡み合った姿が徐々に擬人化して玄武神(真武)となり、中世に千葉氏など有力氏族や寺院などが直接中国と交易をし文物が直に日本に伝わって来るなかで、妙見菩薩として信仰され日本的な変容があったことと説明がありました。さらに日本においては中国と異なりは童子の姿での像容であることが大きく異なることでした。

※注  真武神の特色である男子の被髪(ひはつ)は、人では罪人・〝特別な能力のある男性〟を表しています。古は日本や朝鮮においても男性は普段はかぶり物をしており、髪の毛を直に見せるのは恥と思われていたようです。髪をほどいた姿で人前にさらされるのは、罪人としてでした。テレビや映画で罪人が髪をほどかれていたのを見た人も多いと思います。

※注  日本においても髪を伸ばしたままの大人の男子は八瀬童子・牛飼童(うしかいわらべ童子姿の牛車を引く従者)・根来(ねごろ)の行人(根来の僧兵とは言わない)などが知られています。大人でありながら子供の姿・髪を伸ばした特別の存在の人が、まれにいたわけです。神像として髪の毛を伸ばした姿をしているのが全て女神だとは限りません。

※次の朴亨國先生(武蔵野美術大学助教授)の「韓国と日本の女神像の初期図像」の講演によると、韓国においては女神像は無いと言われていたそうです。慶州市の南山に従来いわれてきた仏坐像が唯一女神像ではないかとの見解を示しています。ここから日本の初期女神像に影響があったのではないかと推測しています。
*あるいは、渡来人が朝鮮半島を経てもたらした神像は、すべて男神像だったのかもしれません。

唐代においては、まだ玄武は亀蛇として理解され、人格化及び伝説の形成は宋代(十一世紀初頭)に成立した。宋の1014 年に諱避のため、玄武から真武に変えられた。

キトラ古墳壁画の玄武(7 世紀末から8世紀初め頃)

キトラ古墳壁画の玄武



玄武 高松塚と共に日本が一番新しい例。
この時代は、玄武もに擬人化していない。

 真武像

11世紀ごろから玄武が中国において擬人化し、徐々に像から蛇が離れていった。
鎌倉期に直接文物が流入するが、真武が妙見菩薩として信仰されるにあたり、童子形という日本的転換があった。
それまでの、図像集に見られる妙見菩薩像、吉祥天とは異なる像の移入があった。

真武像




山東省博物館・真武像擬人化の最も古い例。
11世紀ごろの石棺「中世の童子形」より。

※真武神の格は、中国においてはあまり高くないが、ベトナム、台湾では、
最高神のようです。民間の神のトップは関帝(関羽)。

  ※亀の中国思想史(永谷恵氏)も為になる。
http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/students/04/nagatani.html

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