南天の実
境内の南天が色づきました。
アチコチに自然と増えてきます。
白南天は3年ほど前に購入致しました。
白い実は種を蒔いても芽が出てこないようです。
以前山中で、自然に生えたと思われる白南天を見たことがあります。
鳥が食べて、自然と発芽したのでしょう。
境内の南天が色づきました。
アチコチに自然と増えてきます。
白南天は3年ほど前に購入致しました。
白い実は種を蒔いても芽が出てこないようです。
以前山中で、自然に生えたと思われる白南天を見たことがあります。
鳥が食べて、自然と発芽したのでしょう。
天御中主神より、色々な日本の神様が描かれた掛軸です。
裏に出雲大社と書かれています。
明治以降の掛軸と思います。
大国主神は大黒天が描かれています。私には因幡の白ウサギの姿が、自然と浮かびますので、武神としての画像であったらと思います。
出雲系の大黒さまは、丸々としたお姿が知られています。
お正月用のおめでたい時用なのかもしれません。
久しぶりに飯能市博物館に行きました。
以前は飯能市資料館でした。
常設展示室、特別展示室、学習研修室、図書室などがあります。
飯能村絵図
縄文の土器が展示されています。私の住んでいる近くも遺跡があります。
めぼしい発掘品はなかったようです。
智観寺の板石塔婆は、鎌倉時代に活躍した丹党加治氏の貴重な資料です。
中山氏は戦国時代を生き抜き、徳川家の家臣となりました。智観寺にお墓があります。
水戸藩の付家老黒田家は、能仁寺を菩提寺にしました。
現在の飯能市中心街は、幕末の「ぶっこうし」や「飯能戦争」で、甚大な被害を受けました。
明治初期の飯能の中心街は、かなり賑わっており、市なども開かれていました。
飯能の山間部には、平安時代からの古い由緒のある寺や神社がありました。
この仏像は、高山不動の軍荼利明王のレプリカです。
この像も見上げるほど大きいですが、実物の像は遙かに大きな像です。
飯能は林業で栄えました。
現在の名栗は最近まで名栗村のままでしたが、かつてはとんでもない資産家がいたそうです。
東京の赤坂にビルを持っていると話していたおばあちゃんがいたそうです。
それを名栗出身の方に聞くと、○○さんでしょうと言っていました。
私が40年ほど前に住職になったとき、檀家さんが母は名栗の出身ですと自慢していたのを思い出します。
上野公園を歩き、上野動物園方向に向かっていくと、右側が美術館です。
東京都美術館 台東区上野公園8−36 link
次々に人が出入りしています。いかに人気の催しかが分かります。
中に入ると、大きなテレビ上下に作品が映し出されます。
この画像を見ている間は良かったのですが、実際の絵は、あまりにも心臓をえぐるように内面を攻撃してきます。
私には絶えられない絵が続きました。
副題の「共鳴する魂の叫び」ではなく、私には「おののく魂の叫び」でした。
私には絶えられない状態でしたが、多くの人はジックリ見学しています。
しかし、ノルウェーに帰ってからの作品は、とみに明るくなり、これなら違和感なく見ることが出来ました。
我ながら情けない神経の持ち主であると思います。
上野公園の噴水を西に向かうと、奉楽堂に出ます。
旧東京音楽学校奏楽堂 京都台東区上野公園8−43 ホームページ link
東京音楽学校は現在の東京芸術大学の前身となりました。
ここを通る時、いつも入ろうかと思いながら、今になってしまいました。
この建物は重要文化財となっています。
創建当時の学校模型や資料が展示されていました。
卒業した幸田露伴の姉妹、幸田幸・延は音楽教育を牽引し、滝廉太郎、本居長世、三浦環などを育てました。
有名な卒業生を紹介した部屋がありますが、撮影が出来ません。
日本人の優れた音楽才能を高めた外国人教師達です。
二階のホールに行くと、パイプオルガンの修理中でした。
しばらく様子を見ていましたが、ここを出るとオルガンの荘厳な響きが聞こえました。
修理後の調整をしていました。何の機器もなく、耳だけで修理の人と調整をしています。
絶対音感があるだけでなく、優れた人たちなのでしょう。
私は少しぐらい音程が違っても、まったく分かりません。
ニューイヤーコンサートが開かれるようです。
これ以外にも年に何回かのコンサートやコンクールも開かれるようです。
出島や松前藩だけでなく広く門戸を開いて維新をむかえ、海外から一気に新しい学問や技術が入ってきました。
パンフレットを見るだけでも、新しい流れの一部を改めて見直すことが出来ます。
まず大事であったのが、新しい文化を入れる器でした。
各地に学校を開き、教育に力を入れました。女子にも門戸を開きましたが、割合は少なかったようです。
昭和30年代、私が子供の頃でさえ、文字の読めないお婆さんがいました。
海外から、お雇い外国人を招いて、技術や教育の育成にも力を注いでいます。
しかし、元々学問は大事にされていましたので、たちまち知識や技術を吸収していきました。お雇い外国人もグンと少なくなりました。
尺貫法が改訂され、キロやメートルの単位となりました。
上の画像が、重さ、長さを基準とする標準器を運んできた器です。
その内、世界中の機器よりも優れた物が日本人によって開発されるようになりました。
今でも企業として残る東芝などが、日本を牽引していたのです。
蚕はヨーロッパなどで病気が流行り、日本産の糸が海外に輸出されただけでなく、織物も徐々に力を着けていきました。
日本における重要な輸出品でした。鉱業における銀や銅の輸出も大事な産業です。
通信機器の発達は地域だけでなく、日本中に繋がっていきました。
精密機器に必要なコーツは、海外より二桁も精度の高い技術が開発されています。
それらの沢山の技術の開発が行われたのは、誰でも読み書きが出来るようになった学校制度です。
今の日本の発展は、多くの人々の勤勉さと努力のお陰とだったのです。
上野の国立西洋美術館では、ルーベンス展が開催されています。ルーベンス展
このような重厚な作品群は苦手なのですが、さすがルーベンスはすごいと思いながら廻りました。
かなりの人出でしたが、さらに土日には大変なことになりそうです。
天台宗別格本山寛永寺は徳川家の菩提寺ですが、江戸期は天台宗関東総本山と言われていました。
初代は有名な天海僧正です。
上野戦争で多くの伽藍を焼失してしまいました。
寛永寺開山堂 東京都台東区上野桜木1丁目14−11 開山堂link
寺に面した通りの両側には、何台もの観光バスが駐車しています。
女性二人が本堂でお参りしていましたが、お二人とも御朱印帳を持っています。
山内寺院の御朱印を巡るコースになっています。
不忍池弁天堂と清水観音堂は多くの参拝者を見ますが、普段は閑散としています。
本堂の御本尊は、慈眼大師・天海大僧正と慈惠大師良源大僧正です。
中でお参りさせていただきました。
御本尊はお参りできませんでしたが、お前立ち本尊として、如意輪観音さまが祀られています。
阿弥陀堂は御本尊・阿弥陀如来、その前に地蔵菩薩と虚空蔵菩薩が祀られていました。
隣の輪王殿です。
こちらは葬儀斎場として利用されているようです。
以前お参りに来たときは、たくさんの弔問客で溢れていました。両大師にまでかなりの人がいましたので、諦めて帰ったことがあります。