2019年10月25日

国津神神社と山本坊墓 毛呂山町

国津神神社

廃仏毀釈によって日本全国の修験は廃止され、神社にしたり帰農した行者が多くいました。後に復活したのは、ごくわずかです。今でも復活することを考えている僧侶や神職もいます。

越生に山本坊を起こした本山派修験の別当・栄円の末裔が、後に西戸に移り熊野社を勧請しました。慶安2年(1649)には寺領47石あったそうです。

武蔵国の入間群・秩父郡・比企郡と常陸・越後の一部をの霞を支配したです。48ヶ寺の末寺がありました。

 

大正4年に熊野社から国津神神社と改めました。

国津神神社 毛呂山町西戸916

 

山本坊二十五世・徳栄法印が建立した芭蕉の句碑  「山さとは 万歳をそし うめの花」

 

山本坊墓

埼玉県毛呂山町西戸  地図

国津神神社の前を北向かい、突き当たりを左に折れます。

また突き当たりますので、今度は右折です。

 

右折後に階段のある場所の手前を右に折れて、約20メートルで歴代の墓に至ります。

 

山本坊は平将門の子孫と伝えられ、相馬の姓を名乗っていました。家紋も九曜星です。

 

以前、友人が山本坊は絶えてしまうと話していました。絶えてしまったのかも知れません。

お墓参りに来られているようには思えませんでした。

 

←智福寺の板碑と八坂神社の御まら様          毛呂氏菩提寺 妙玄寺 毛呂山町→

智福寺の弘安・応長の板碑 八坂神社 埼玉県毛呂山町

智福寺

智福寺は無住の寺院です。

お寺の駐車場に電話ボックスがありました。いつもスマホがありますので、意識したのは久しぶりです。

 

御本堂前に大きな板碑が並んでいます。

大きな二面の板碑は、幕末に廃寺となった常楽寺に建てられていました。

 

阿弥陀如来の梵字キリークと不動明王カンマンが彫られています。毛呂山町で一番古い板碑です。

弘安三年(1280)の板碑

 

応長元年の板碑は上部が掛けていますが、 おそらく胎蔵界大日如来の梵字「アーンク」が彫られていたのでしょう。アーンク梵字リンク

年号の左右には光明真言 右「オン、ア、ボ、ギャ、ベイ、ロ」「シャ、ナ、マ、カー、ボ、ダラ」   左「マ、ニ、ハン、ドマ、ジンバ、ラ」「ハラ、バ、リタ、ヤ、ウーン」が彫られています。

応長元年(1311)の板碑

 

阿弥陀如来梵字「キリーク」の板碑  梵字の上は阿弥陀、観音、勢至の三尊仏かもしれません。

嘉元3年(1305)の板碑

 

小さな板碑も3体ありました。

 

六地蔵様と石仏

 

この石像は尼僧のように見えますが不明です。近くで文字を撮影しておけば良かったと思います。

 

真言宗智山派・智福寺 埼玉県入間郡毛呂山町西大久保148 地図

 

八坂神社

八坂神社は智福寺の牛頭天王社でした。

廃仏毀釈のおり、智福寺を離れ八坂神社となりました。

 

興味をひいたのは、御まら様の社です。

昭和50年頃、越辺川にかかる万年橋上流の河岸より、砂利採取中に発見された男根の石像御神体です。

この石棒は縄文時代中期に近畿地方以東を中心に広がったそうです。 石棒Wikipediaリンク

 

比較的大きな石棒が8体祀られています。縄文時代とは知りませんでした。

 

初めて石棒の実物を見たのは、茨城県の神社でした。やはり大事に小さな社に祀られていたと思います。

石棒ではありませんが、川崎市の金山神社では「かなまら祭」が行われています。金山神社 かなまら祭 Wikipediaリンク

 

道路の向かい側は、毛呂山町農業センターです。当日は祭の準備なのか、太鼓を自動車に積んでいました。

 

←延命寺 星宮神社 毛呂山町          国津神神社と山本坊墓→

ページ上部へ