通夜葬儀とは-仏教的でない古いお話し
多くの僧侶の方々から、間違いなくしかられる内容です。
でも、お年寄りに話しをすると、多くの方がうなづいています。昔のしきたりを知っているからです。
しかし、地域により、時代により、大きく変化しています。
なぜ通夜を行うのでしょう
通夜とは「夜を通して」と書きます。夜通しです。
夜を通して何をするのでしょうか。
以前は親族の方々が、御遺体のそばで一夜を明かしました。
なぜでしょうか?
実は通夜とは殯(もがり)のことです。仏教が日本に至る、遙か以前からあったしきたりです。
1、まだ生きている。たまたま魂が身体から抜け出てしまった。
2、魂を身体に引き戻す。
3、死を確認する期間
昔は通夜には親族親戚や組合だけが参列しました。
また、亡くなっていないのだから、喪服を着ていくことはタブーだったのです。明らかに仕事場からの帰り支度の方がいました。
この地域で黒の喪服が多くなったのは、30年ほど前からです。喪服出来て怒られていた人を何度か見たことがあります。
昼は生きとし生きる者の世界、夜は魑魅魍魎の世界と思われてきました。
夜となり、魂が離れた身体に悪霊が入り込まないよう、昼間と同じようにロウソクを灯し明るくしました。線香は仏様へのお食事と言われることもありますが、この時は悪霊除けの意味で手向けたのです。
ロウソク、お線香共に途切れないように、夜通し接したのです。しかし今は電気と巻き線香が替わってくれます。
死んだと思われた方が息を吹き返したあと、中にはまったく別人になってしまうことがあったようです。実際何人もの人から聞いています。
心臓はほとんど働かず、呼吸も満足に出来なかったことから、脳に供給される酸素がわずかとなり、脳に支障が出てしまったのかもしれません。
それを悪霊に身体を乗っ取られたと感じたのでしょう。
以前岩手出身の方が、祖父が亡くなって七日目でないと葬儀が出来ませんでしたと言っていました。その間毎日お坊さんに拝みに来てもらったものですと話していました。
30年ほど前に当寺の檀家さんが秋田の実家で亡くなった時は、当地の智山派の御住職に依頼し、やはり七日目の葬儀でした。
今は半通夜が多くなりましたが、通夜の翌日に死を確認して葬儀を行います。
本当に亡くなったのですから、喪服で葬儀に参列します。
今では通夜の方が、大勢来られるだけでなく、親族でさえ「通夜にだけ行けばいいんでしょう」と、とんでもない事を言うようになりました。
お孫さんが、学校を休ますのはかわいそうだから、通夜だけでいいと言った親御さんが大勢います。喪主となるべき人で、今まで一度も葬儀に列席したことがないと言ってた方が、ずいぶんいました。
お葬式が一番大事なのです。供養することと社会の仕組みを知る大事な場所でもあります。
以前ある社長さんが、別のずっと大きな会社の社長さんの通夜のみ行き、葬儀に行きませんでした。「通夜だけ行けばいいんでしょう」と言い、その会社から干されてしまった事があります。
今は会社葬をせず、一般の葬儀を立派に行うことも多くなったようです。
会社としても、どれだけ来てもらえるか、責任があるわけです。
○○家葬儀は会社葬でもあるのです。会社通夜とは言いません。
僧侶も通夜の時より、葬儀の方が豪華な衣で儀式を行います。
死後もすぐに旅立つのでなく、7〜10日過ぎてから旅立つと言われています。
初七日、十日祭がそれに当たります。
更に30日〜50日かけ黃泉(よみ)の旅となり、彼の地につくと言われています。この間が忌中、喪中と言います。
親族が後押しをして、さらに良いところに行き着いて頂きたいとする忌明け法要が、三十五日忌、四十九日忌、50日祭、100日祭なのです。これまでにお位牌を用意します。仏壇のない方はお求め下さい。 中陰
通夜葬儀に自分たちの宗旨、信仰のみを相手に押しつければ、多くの他の方々はどのように思うでしょう。
葬儀の場はどなたにも開かれた場であるべきです。
豪華な通夜葬儀はいりませんが、行うことが大事なのです。
小さいときから通夜葬儀に参加し、人の死と尊厳を知ることが、社会に出て相手を思う優しさに繋がっていきます。
「何宗では成仏できない、成仏できるのは○○宗だけだ」
とか、
「何宗は地獄に落ちる、歴史が証明している」
などと私に言った新興宗教の信者さんも数人いました。
お釈迦様は修行者からの
「あなたの教えを実践すれば、天国に行けるのか?」
と言う質問に答えませんでした。
修行者なら自分で考えなさいと云うことでしょう。
あるおばあさんの
「おしゃかさま、私は天国に行けますでしょうか」
と言う問いには、
「あなたは天国に行けますよ」
と話されました。
お釈迦様は何教だから天国に行ける行けないではなく、善き人(よきひと)であれ、暖かい心を持ちなさい、と説いているのだと思います。
今のこの世を大事にすることだと、お教えになっています。
お釈迦様は死に臨んで「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)を尊重すべし」と説かれました。即ち戒律です。
信仰が一番大事でなく、善き人であれと説かれているのだと思います。
では亡くなられた方の関係者は、どのように思っていただくのがよいのでしょう。
阿弥陀三尊
私は、
「間違いなく、○○さんは成仏します。成仏しましたと思って下さい。もし皆さんの心の中に成仏するのか、あるいは地獄に行ってしまったのではと思う闇が、地獄を作ります。」
とお話ししています。
弘法大師は、
「仏法遙かに非ず、心中にして即ち近し」
と説かれました。
心の中の浄土・天国を思い、心の暗闇の地獄を作らないことが大事です。
私が学生の頃、ご本山の管長様は仏の世界を
「仏の世界は、どこにあるのか。あそこにある。そこにある。ここにもある」
と指さして私たちに話されたことがあります。
どこが浄土であり、極楽であるかでなく、そう思うことにとらわれないように真言宗の教えを通じて説明して下さったのだと思います。
ある宗派の御住職は、「地獄はこの世の中です」と話されていました。
信仰だけで何事も上手くいくわけではありません。この世の地獄を迎えないよう、多くの方に善き人として、接していただきたいと念じています。
※このような話しをした後、ある宗旨の方が、「住職とは考え方が違う。」と、食って掛かってきたことがあります。その人は亡くなると阿弥陀様が迎えに来るとする立場でした。
私は、「仏教が日本に入る以前から有り、且つ、今でも基底にある受け継がれた思想の話しを元にしているのです。」と話しても、納得していしていただけなかったことがあります。
おそらく盆迎え、盆送りの行事も認めない、三途の川なども無いとする立場なのでしょう。私も三途の川の一歩手前で帰ってきてしまいましたので、三途の川に関しては何とも言えません。
日本は一つの宗教、宗旨だけではありません。いろいろな方が、いろいろな立場で生きています。死後の世界も同じ宗旨でさえ異なる考えの方がいるのです。
通夜葬儀を含む法要の場は、善(よ)き友、善き仲間として相手の立場を尊重し、心をこめて供養する場であると思っています。
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