江戸期に御本山智積院に40年間在住していた僧侶です。
信州で生まれ9歳で出家しました。信州の智山系の寺院だったのかは分かりません。江戸時代は仏教総合大学のような寺院であった京都智積院に入りました。
この当時の智積院は超優秀な僧侶が学ぶ寺院で、真言宗以外の僧侶も大勢学んでいました。
多い時期は3000人も学んでいたそうです。智積院ホームページlink
法名は憲壽、字は虎溪、法号は道本、号を安忍子・不可得・楽々庵などと称していました。
後に京都の六波羅蜜寺、10年間佐渡の蓮華峰寺、江戸浅草・石清水八幡宮別当大護院住職となりました。
江戸では他宗旨の僧侶とも広く交流していたそうです。
安政4年(1857)8月に亡くなり、享年91歳でした。
和合楽
歌舞伎や浄瑠璃の外題にあるそうです。
「わごうらく」と読みますが、意味は分かりません。「夫婦和合して楽来る」夫婦仲良くでしょう。
良薬於苦口
良薬は口に苦しです。出典は『孔子家語』です。「孔子曰、良藥苦於口、而利於病。忠言逆於耳、而利於行」
私に対する、戒めの言葉です。
虎溪道本、印は憲壽道本とあります。
大護院は廃仏毀釈によりありません。浅草・石清水八幡宮は蔵前神社となっています。
本寺は御室御所仁和寺でしたが、関東では実質的に新義真言宗系(現在の智山派・豊山派・新義真言宗)の僧侶が住職をしている寺院が多くありました。
追記 2020/07/21
岡谷市の正光寺ホームページに釈道本の記載がありました。
「当山第十九世法印憲快は、憲寿と法兄弟の間柄であったので、当山は憲寿の書蹟を多数伝存する。」とあります。
前照光寺御住職・宮坂宥勝師は、真言宗智山派管長・総本山智積院化主でした。