狭山市に甲子大黒天(きのえねだいこくてん)の寺院があることを知り、参拝して参りました。
天文5年(1740)に霊雲寺の末寺となっています。
霊雲寺派の寺院は数ヶ寺は知ってはいますが、調べても多くありませんでした。

御本堂の紋を見ると、なんと「葵紋」でした。

御住職の大黒さん(奥様)に聞くと、御本山霊雲寺の宗紋が葵の紋なのだそうです。
徳川綱吉から現寺地を得て、霊雲寺を開創したことにより、宗紋となったそうです。
真言律宗の関東本山としてだけでなく、徳川家の祈願寺でした。
霊雲寺ブログlink
案内板にもありますが、宝篋印塔は徳川吉宗の二男である田安宗武により建立されました。


江戸期には霊験あらたかな大黒天様への参拝が盛んでした。
しかし、格式の高い霊雲寺派は檀家を持たない寺院が多く、明治以降苦しい時代を迎えてしまいました。


ある人はいろいろな自分好みの寺で七福神札所を作っていると、話していたことを思い出しました。
お正月は、それらの七福神札所を巡っているそうです。
ここなども候補に入れて、自分だけの七福神札所を考えるのも面白いでしょう。
後で気がついたのですが、西浄寺には河鍋暁斎が訪れ、多くの作品が残されています。
当時の住職・林法泉師は暁斎の弟子でした。林法泉ウィキペディアlink
暁斎の「ねずみの図」です。
現在は狭山市立博物館に寄託されています。


この図と同じ図柄の掛軸が、当寺(円泉寺)にあります。
大黒天は描かれていませんが、大黒天の小槌をネズミがお正月前に大掃除している場面です。
円泉寺の河西草畝筆の「遊福の図」です。
まったく同じ図柄であることが分かると思います。
河鍋暁斎の絵か、他の方が書かれた他の作品を元に描かれています。
ひょっとすると西浄寺で描いたのかも知れません。

西浄寺墓地は昭和56年にもうけられました。
祈願寺としてだけでは、寺院経営が厳しかったのです。
奥様は霊雲寺に勤務していました。
しかし、コロナのため週一回行くだけになっていると話していました。
腰の低い、明るい奥様です。檀家さんに頼られているに違いありません。

真言宗霊雲寺派 西浄寺 埼玉県狭山市柏原1059 地図リンク
※ 河鍋暁斎展 サントリー美術館にて ブログlink