2015年06月

平安時代は吉祥天と同じお姿の妙見様も祀られていました。

 
日本の美術『妙見菩薩と星曼荼羅』林温著に、平安時代の恵什の「図像抄」に霊巌寺(京都北山・廃寺)の妙見像は等身大で、左手は宝珠を持ち胸のあたりで支える。右手は与願印で、吉祥天に同じと書いてあります。
 
本当かなと思っていましたら、ある方から資料を頂き、どうも事実らしいことが分かりました。
羽黒の荒沢寺正善院にある元羽黒山五重塔にあった懸仏の御尊像の内、妙見菩薩は三井寺の吉祥天そっくりだそうです。ブログlink
 
羽黒山(羽黒彦命・玉依姫命・九頭竜王)は聖観音菩薩、軍荼利明王、妙見菩薩と神仏習合をしています。
 
 
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羽黒 正善院の懸仏
軍荼利明王 聖観音菩薩 妙見菩薩
 
-滋賀県立安土城博物館学芸員山下立氏の研究論文より- 
 
 
 
 
 
東大寺などにもかつては妙見菩薩が祀られていました。現在祀られている吉祥天も妙見菩薩だった可能性があるようです。
 
この時代には、密教の図像集にあるような御尊像も祀られていました。
 
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画像集にある妙見菩薩

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耶馬溪の妙見菩薩

やはり三井寺の御尊像・北辰尊星王は上の画像のようなお姿をしています。
 
当寺の掛軸・三井曼荼羅図(江戸期)の一部にある尊星王です。
 
 
2015625194218.jpg当寺の掛軸より
 
 
広く知られている童子形、能勢形の御尊像とかなり異なります。
 
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童子形妙見菩薩

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能勢形妙見菩薩

 
よみうりランドの妙見様、群馬県少林寺の北辰霊符神鷲妙見菩薩など、それぞれ異なったお姿です。
 
知らなければ妙見様とは分からないでしょう。
 

お蚕の神さま衣襲明神(馬鳴菩薩)-茨城県神栖市 星福寺 蚕霊神社-UFO?伝説も

円泉寺のホームページ「智山の仏様」で紹介している星福寺の「衣襲明神」です。

ある仏様を調べる過程で、いろいろな古い神仏のお姿を集めましたが、その中に智山派の古いお姿があり、意識的に収集いたしました。

養蚕神1

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星福寺の衣襲明神(きぬがさみょうじん)

 

江戸時代には星福寺の蚕霊尊が各地に巡行し、多くの信者を獲得したようです。この掛け軸の衣襲明神が蚕霊尊なのでしょう。
滝沢馬琴もお寺の発行のお札を見て、衣襲明神の錦絵の文章を書いているそうです。
 
 
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手に持っているのは桑です。

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養蚕神2

 

明治になり廃仏毀釈により、祀られていた御尊像は星福寺に移され、「馬鳴菩薩」として祀られているようです。

現在は神栖町の蚕霊(さんれい)神社となっています。

つくば市の蚕影(こかげ)神社、日立市の蚕養(こがい)神社とともに「常陸国の三蚕神社」と呼ばれているようです。

享和3年(1803)にこの近くに「うつろ舟」が漂着し、中から女性が出てきたと伝えられています。乗っていた舟?がUFOにも思えます。

描かれた女性の姿が蚕霊尊に似ているようです。

「うつろ舟」まとめ リンク

蚕霊山千手院星福寺  茨城県神栖市日川900   地図

真言宗智山派 星福寺
 
星福寺本堂
 
 蚕霊神社は星福寺より200メートルほど西にあります。
 
蚕霊神社
 
 

   当寺ホームページ  智山派の仏様
 
追記  2015/12/22
 

先日青梅市のAさんが来られ、福生市・永昌院の幣束を掲載したコピーを頂きました。 リンク

蚕影山永昌院は金色姫伝説が伝わる蚕影山桑林寺(現在のつくば市・蚕影神社) より文久三年に蚕影山を分霊しています。

ここの幣束は金色姫蚕影山幣束と金色姫幣束があり、代々継承されているそうです。

 

なお、蚕影神社(こかげじんじゃ)の御朱印は筑波山神社授与所でいただけるようです。  山の住人さんのブログ リンク

そういえば、筑波神社にお参りしたとき、蚕影神社の御朱印のことが書いてあったのを思い出しました。しまったー、あの時いただいておけば良かったと思っても後の祭りでした。

 

追記  2016/01/01

日立市川尻の蚕養神社のお姿を手に入れました。

 

20161118303.jpg蚕養神社  茨城県日立市川尻町2

 

養蚕神のお姿札・掛軸・絵馬 リンク

 

 

海の運動会(宮城県県南三陸町)-参加者募集-立ち上がれ飯能

円泉寺では、お賽銭と永代供養総供養法要のお塔婆などの御布施を東日本大震災のボランティア活動をしている「立ち上がれ飯能」(埼玉県)の活動に半分(残りは福島県大熊町の関係者に依託)に利用させていただいています。

この度、南三陸町での「海の運動会」で使用していただくことになっております。

内容について知りたい、参加を希望したいなど、下記の「タイムズマート飯能」にお問い合わせ下さい。

 

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日      時  平成27年8月16日(日)
集合場所  タイムズマート飯能店  飯能市山手町16-6  地図
出発時間  8月15日(土)午後9時
お問合先   タイムズマート飯能店  武田
携帯  090-7190-6200(武田)
 
 
※タイムズマート飯能店は飯能駅北口近くに移りました。タイムズマート飯能店ブログlink
 

タイムズマート飯能店 埼玉県飯能市仲町9−1 地図link

北辰明見星碑-名山壽行関連-神奈川県の富士信仰と妙見信仰 の結びつき

小田原市の某家より当寺に奉納された観音堂前の北辰明見星碑のことが少し分かりました。

北辰明見星とは北辰明見菩薩(妙見菩薩)のことです。北極星、北斗七星の神格化された仏様です。

本来天部の仏様ですが、菩薩の名が付いています。

 

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神奈川県開成町の広報に簡単ですが掲載されています。  開成町広報   

開成町の富士講先達・加藤平左衛門(明治37年歿)により小田原市の某家に建立されたようです。
碑の文字をしたためた名山壽行(みょうざんじゅこう)も彼でした。
 
加藤平左衛門は北極星と富士信仰を結び付けた藤丸講(ふじまるこう)を創設し、熱心に富士信仰を広げました。
富士登山も76回も行ったそうです。
 
墓地は金井島の香徳院にあります。
 
 
平成21年10月1日に小田原に赴き、円泉寺に移す儀式を行いました。
 
 
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他にも七ヶ所(八体の石碑)名山壽行の明見碑があるようです。
 
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  大稲荷神社(小田原市城山) ブログ 
  観音堂(開成町円通寺) ブログ
  個人宅(開成町金井島)-加藤平左衛門(名山寿行)旧居
  祖師堂(開成町吉田島)ー吉田島教会
  福沢神社(南足柄市怒田) ブログ 
  大円寺(南足柄市怒田) ブログ
  国分㈱鵠沼寮駐車場(藤沢市鵠沼海岸)  二体の石碑
 
より知りたい方は もう一つのブログ  を参考にして下さい。ブログ
 
 
※開成町は東日本で一番面積の少ない町だそうです。  Wikipedia開成町
 
 
〒357-0014   埼玉県 飯能市平松376番地   円泉寺   電話042-973-5716
 

アジサイが咲いています

少しづつアジサイが咲き出し、あと少しで見頃となります。

 

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境内に毎年一本は苗を植えています。

手入れが悪いので、見事とは言えませんが。

 

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最後の写真は見ない方がよいかもしれません。
いろいろな生き物が隠れていますね。
 
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サツキは赤系は盛りが過ぎましたが、ピンクや白が次々咲いています。

 

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境内から見た夕焼け

外を見ると夕焼けでした。
慌ててカメラを撮り出し、蚊に喰われながら撮影しました。
 
 
 
もっと早く気がつけば、色々な変化を捉えることが出来たでしょう。
 
 
 
鳥も飛んでいたのですが、シャッターを押したときには、すでにいなくなっていました。
 
 
 
 
 
結構暗くなっていましたので、ここまで撮れれば満足です。
 
 
 

綿貫家妙見堂関連古文書

当山の妙見菩薩の由来を伝える文書は、当山檀家綿貫家に伝わる古文書のみであり、詳細は明らかではありません。

 

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将門公が戦いに敗れ討ち死にすると、配下の武将であった綿貫家の先祖であ平豊八は、将門公の念持仏である妙見菩薩像を守護し、代々守り通したと伝えられています。

Wikipedia平将門      

綿貫の名字は現在の群馬県高崎市綿貫より出たようです。

 

妙見菩薩像は今から180年ほど前に綿貫家より当山に移し祀りました。 

それから約十年後の弘化五年綿貫家六、七代前の分家で川越藩出入りの御用商人となった綿貫伊助が、、京の神祇官公文所の許可を得て、あらためて境内を高く盛り土し、お堂を建立して祀りました。

村民が総出で工事にあたったそうです。

 

しかし、私が入山した時は妙見菩薩像は祀られて無く、御幣のみでしたので、新たにお姿の御神紙を元に御尊像を彫っていただき祀りました。現在は二代目の御尊像となっています。

 

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妙見堂

 

私が入山後、あまりにも妙見様のことを知らなかったためにいろいろ調べた資料をホームページに掲載したのが「妙見菩薩資料集」です。

 

今年の9月19日より、東京都「板橋区立郷土資料館」において『特別展 武蔵千葉氏』が開催されるに当たり、この古文書はありませんが、私の集めた資料の一部が展示される予定です。

 

  埼玉県 飯能市平松376番地   円泉寺      ホーム  
 

 

小諸城址 懐古園

懐古園は家内と行って以来、二度目となるはずです。最初は電車で、今回は車です。

しかし、ほとんど覚えていませんでした。

三の門

小諸城址懐古園  長野県小諸市丁311 地図

名のある城跡ですから、さぞかし市内から遠望できるのだろうと思いましたが、市街地の方が高い位置にあるのだそうです。

 

城跡の中に神社がありました。

 

たくさんの大きな鯉が泳いでいます。

かなり広いですね。

見所を一周しただけでした。

 

 

天守台は周りに木が生えていますが、城として機能していた時代は、遠くから遠望できたのでしょう。

 

向かい側は動物園になっています。

 

富士見展望台は、見晴らしの良い場所です。

富士見とあるのですから、富士山が見えるのでしょうか。

 

島崎藤村の詩や小説を高校、大学の頃読んだ記憶があるのですが、内容はほとんど思い出せません。

一部だけ覚えていたのは、「千曲川旅情の歌」だけです。

でもYouTubeで歌を聴いてみると、私の覚えている曲と似ていて非でした。とても歌えません。

 

駐車場近くに展示されているC56です。

 

真言宗智山派 幸祐寺 長野県東御市

ご住職は当寺檀家さんのご親戚で、通夜の時に紹介され一緒に読経をお願いいたしました。御布施はなしです。

千葉県の出身で、成田山系の方です。

あいにくの雨の中でしたが、快く迎えていただきました。

葬儀以来、時折お手伝いをお願いしています。

ある葬儀では、都内まで通夜葬儀を依頼致しました。喪主と葬儀社に土日に勝手に予定を入れられたときです。

時折依頼している後輩の内、アチコチ電話して近くから段々遠くなり、八件目でやっと空いていたのが幸祐寺さんでした。たまたま空けていた日なのだそうです。

気軽に応じていただき、ホッと致しました。

都内にホテルを予約していただき、二日間を無事済ませていただきました。

 

幸祐寺  長野県東御市和東上田8256  地図

 

三途の川 奪衣婆 臨死体験

甘楽町の第三回目です。

かつて埼玉県の「川の博物館」において『発見!三途の川』展を見学したことがあります。

埼玉県立川の博物館

この時、日本人に三途の川の根源となる意識は、なんと縄文時代にさかのぼることを知りました。
 
 
 
三途の川の概念につながる遺跡「奥三面遺跡」があります。
人が住む集落と墓地との間に人工の川が掘られています。
 
 
三途の川と言う言葉は無くとも、それにつながる意識があったようです。
 
さらに日本書紀には伊弉冉尊が黄泉の国から帰ったとき、この世とあの世の境で禊ぎをしたとあり、境界としての意識があったようです。
 
この奥三面遺跡群には環状列石があり、三内丸山遺跡と同じ様な掘立柱建物跡が発掘されています。
 
インドにおける地獄の世界観は、中国に伝わり道教とも結びつきます。
日本においては、往生要集の中で地獄が語られ、特に江戸時代に江戸庶民に関心が高まりました。
 
しかし、三途の川は往生要集にも書かれていません。
仏教に取り入れられたのは、唐の時代に蔵川が著した偽経が最初で、奈河とありますが、三途の川となった考えられているとのことです。
 
縄文、弥生からの古い意識と仏教が結びつき、三途の川となったようです。
三途の川は橋で渡ったり、船で渡ったりで、いろいろな説があります。
江戸期にたくさんの印刷物が出回りましたが、正式の仏典に準拠していないため、色々な説があるようです。
 
また、賽の河原は室町時代の御伽草子「富士の人穴草子」に初めて出てくるのですが、三途の川の関係は明らかで無いようです。
 
奪衣婆に関しても記されていますが、江戸末期に人々のあらゆる願いを叶えてくれる流行神となった事がありました。
江戸っ子の粋な意識が面白いと感じました。当時の錦絵にあまりも多くの人の願いに、奪衣婆の困った顔が面白いです。奪衣婆画像link

 

新潟県岩船郡朝日村  奥三面遺跡   地図   

縄文の里・朝日・奥三面歴史交流館 リンク

 

川の博物館では、3ヶ所「三途の川」を紹介していました。その内の1ヶ所が甘楽町の三途川です。

 

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三途川は上信越自動車道の甘楽パーキングの東側を南北に流れており、上下道共に多くの車がその上を走っています。

 

三途の川の脇には奪衣婆(だつえば)を祀る姥子堂(うばごどう・しょうづかさん)があります。姥子堂の前も道路(国道254号線)があり、三途川の上をたくさんの車が行き来しています。

姥子堂 地図

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奪衣婆(だつえば)

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姥子堂(うばごどう)

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三途橋と昔の写真リンク

 

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姥子堂は近くの宝勝寺の持仏堂で、六十代の方が昔子供の頃、二度ばかりお祭りをしていたのを記憶していると教えてくれました。

お念仏も行っていたようです。

 

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真言宗豊山派 宝蔵寺  甘楽町金井375ー1

 

宝蔵寺は小幡藩織田家家臣の菩提寺だったようです。今は天童市に家臣の方々の子孫が大勢居ます。

 

臨死体験

以前一ヶ月の入院をしました。
よくお寺に来られる婦長さんが、この時の数値を見て「良く死ななかったわね!」と家内に言ったそうです。
 
退院後、十名以上の方から「三途の川を見ましたか?」と聞かれ、その中には7人以上の女性が三途の川を見たと言っています。
 
私はそこまで行き着かなかったようです。
立ち話でしたので、詳しくは聞くことが出来ませんでしたが、3人が「回り中が光りに満ち、川の向こうは花が咲き乱れていました。」と話していました。
「子供の姿になっており、川の向こうには死んだはずのおばあちゃんが、こっちに来てはだめだと言い、行きたかったのに帰ってきた」と話していた方もました。
 
 
臨死体験は薬剤などの幻覚と異なり、冴えきった意識と記憶が残るのが特色のようです。
もっと聞きたかったのですが、お寺の行事で大勢人のいる場所でしたので残念でした。
20年以上前に聞いたことですが、ある男性は病院のベットで、自分が身体から離れ上から家族が嘆いている姿を見ていた。子供の身体に手を触れすてもすり抜けてしまったと言っていました。
 
立花隆著「臨死体験」シリーズ
立花隆氏の「臨死体験」を読むと、いろいろな体験が書かれています。
三途の川を見た人も書かれています。
数多くの話しが掲載されており、国によって宗教によって、臨死体験で見る世界が異なることを知りました。
インドでは閻魔様の使いが迎えに来たと話す人が多いそうです。
また、脳科学で解明しようとする立場の方々や、それでも説明できない多くの例も掲載されています。
私が聞いた三途の川を見たと言っている女性の内、3人が死が怖くないと話していました。
このような気持ちのを持てた方々は、病後の大変さがあったとしても、安らかに旅立つことができるのでしょう。
 
科学者は何が何でも脳科学の立場で説明できると研究している人もいるようです。
しかし、鮮明に見た世界を覚えているほど、脳が働いていると言えないなど、全てを説明できる訳ではないようです。
科学者の中にも臨死体験の研究を通して、死後の世界を信じるようになった人もいます。
私も来世は、お花畑と思うようになりました。
 
あまりにも不思議な経験に、誰にも言わずにいる方もいると思います。
異なった体験をした方もいるでしょう。
ある僧侶は、骨となるだけで来世はないと言っています。
色々な考えがありますが、相手を思いやる気持ちが大事です。
善き人であることが、一番大事なのです
病後の体力・記憶力の低下は、隠しようがありません。
ぼけがあまり進まないように、ブログも続けたいと思っています。
 
 

地獄は何れの処にか在る いずれかの自心の中に観ん     弘法大師(秘密曼荼羅十住心論)

それ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。真如外に非ず。身を棄てていずくにか求めん。 弘法大師(般若心経秘鍵)

 
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