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天台宗 薬王寺 埼玉県毛呂山町

嘉元の板碑に行く途中、ナビに薬王寺とありましたので参拝致しました。

毛呂山町の医王寺に参拝した後でした。寺名が異なっても薬師如来が御本尊となるわけです。

 

 

新編武蔵野風土記によれば、「天台宗、仙波中院の門徒、医王山千手院と号す、本尊薬師を安ぜり、」とあるだけでした。

まるで当寺・円泉寺のような新編風土記の文章です。

円泉寺のように江戸末期に住職が住んでいなかったからかも知れません。無住のため幕府への提出書類が、おろそかになっていた可能性もあります。

しかし、薬王寺は、良く整備されていると思います。

 

 

入口から御本堂に向かう途中に、六地蔵の石仏が祀られていました。

三面に地蔵菩薩が二体づつ、側面には南無阿弥陀仏と彫られています。

 

 

御本堂正面の額は、医王山とありました。

 

 

境内には板碑がありました。一部は読めるのですが、よく見ると自信が無くなります。

中央には大きめの梵字が三文字あります。上から梵字・大日如来「バン」、阿弥陀如来「キリーク」、釈迦「ハク」と思います。

左右の梵字と下の文字は、摩耗しており自信がありません。

 

 

天台宗 薬王寺 埼玉県毛呂山町葛貫821  地図

 

←嘉元の板碑 埼玉県毛呂山町

 

嘉元の板碑 埼玉県毛呂山町

毛呂山町で一番大きな板碑で、鎌倉時代の嘉元4(1306)年とあります。

阿弥陀一尊の梵字「キリーク」が上部に彫られています。

 

 

 

高さが3、4メートルです。観無量寿経の光明遍照などが彫られていますが、この場所では良く読めませんでした。

画面を補正して、少しだけ読みやすくしています。

 

 

実は記憶にある場所を探したのですが、記憶違いで一本北側の道が正解でした。

Googleの世話になり、行くことができましたが、場所が毛呂山町大字大谷木1−15となっています。

「嘉元の板碑 毛呂山町」で検索すると、スマホの地図で案内してくれますが、本来の地番は毛呂山町葛貫字大石仏です。

間違いなく案内されたので良かったのですが。大谷木は北側の字です。

 

 

この場所は小字大石仏(大石仏)で、かつて真言宗宝福寺があった場所です。

尚、毛呂山町で一番古い板碑は、智福寺の弘安3(1280)年です。以前のブログ リンク

 

嘉元の板碑 埼玉県入間郡毛呂山町葛貫字大石仏  地図

 

←医王寺 埼玉県越生町               薬王寺 埼玉県毛呂山町→

三満山 虚空蔵尊 埼玉県越生町

昭和48年(1973)に虚空蔵堂の万蔵寺(廃寺)天井裏から小判や古銭が109枚発見されました。

そのため福の神としての名声を高めたようです。

私も新聞で読んだ記憶がありました。ここだったとは思ってもいませんでした。

 

毎年3月にだるま市が開かれ、多くの参拝者で賑わいます。

 

 

参道東側の赤い屋根の寺が、廃寺となった万蔵寺と思います。

全国の寺院は無住や廃寺が増えています。特に祈願寺を維持するには、厳しい時代となっています。

 

 

ここから桂木観音方面には車では行けません。通行止めになっていました。

あくまでもハイキングコースとして、地元の方の道です。

 

 

この後に近くの医王寺にも参拝しましたが、たまたま住職夫人がおり、「 祭礼の時は住職が儀式を執り行いますが、虚空蔵様は村持ちです」と話されていました。

兼務の寺や医王寺持ちではないそうです。

 

 

朝方まで降っていた雨のため、落ち葉のある階段を注意して登りました。

手すりがあって助かります。

 

 

虚空蔵堂に到着しましたが、息切れをしてしまいました。運動不足です。

 

御堂は比較的新しく、高い場所での資材の搬送、工事など、どのように行ったのか興味があります。工事用道路があるのか確認を忘れました。

今日は誰もいませんが、祭礼のブログなどを読むと、多くの人に愛されていると思いました。

 

 

毎年3月の祭礼には、多くの参拝者で賑わいます。

中を覗くと虚空蔵菩薩の三満山星光院とあるお姿がありました。

私はうさぎ年ですが、旧暦で言えば寅年です。健康を祈願して般若心経などをお唱え致しました。

 

 

ここの石仏は子授けの虚空蔵菩薩です。

各地(特に関西)の虚空蔵菩薩をお祀りしている寺院では、十三詣りが昔から知られています。数えで十三歳になったおりに、知恵と健康を授けていただくよう、お参りする行事があります。

知恵の文殊と言われていますので、入学成就・学業成就祈願で多くの参拝者が詣でる寺院もあります。

私は、これ以上ボケないようにと、お願い致しました。

 

 

階段を登り切った場所に狛牛、狛虎の石像が祀られています。

 

 

虚空蔵菩薩の生まれ年本尊が、丑年・寅年にちなみ祀られています。

 

狛牛

 

狛虎

 

以前はこのくらいの階段は怖くありませんでしたが、ぬれていましたので慎重におりました。

 

 

この後、近くの医王寺に向かいました。

 

三満山 虚空蔵尊 埼玉県入間郡越生町大字上野2261 地図

 

円泉寺と七観音石塔 埼玉県越生町               真言宗智山派 医王寺 埼玉県越生町

 

円泉寺と七観音石塔 埼玉県越生町

私が住職を務める寺と同じ寺院名であり、宗派も同じ真言宗智山派に属しています。

東松山市の御住職が兼務しています。

 

 

新編武蔵野風土記によれは、御本尊は薬師如来とあります。

 

参道入口には立派な板碑が祀られていました。

残念ながら上部の梵字部分が割れており、文字も風化しています。

 

 

寺の西側の道を北に向かうと、七観音と馬頭観音の石仏がありました。

 

 

一番上が千手観、右に聖観音・十一面観音・馬頭観音、左に如意輪観音・不空羂索観音・准胝観音だそうです。

文化11年(1814)に鹿下村の観音講によって作られました。

もともとは白根橋のたもとにあったそうです。円泉寺に祀られたわけではありませんでした。

 

 

寺の裏側から、ここに来る小道があるようでしたので、てっきり寺の石仏と思っていました。

 

 

円泉寺 埼玉県越生町鹿下60  地図

 

←法恩寺 渋沢平九郎の埋首の碑 埼玉県越生町

 

法恩寺 渋沢平九郎の埋首の碑 埼玉県越生町

法恩寺は天平10年(738)に行基菩薩によって開かれた寺として知られています。

江戸時代は真義真言宗関東十一檀林の寺で、多くの僧侶を養成していました。現在でも多くの末寺を持つ真言宗智山派の本寺です。兼務する寺院も多くあります。

ここも越生七福神の札所で、恵比須さまを祀っています。

 

渋沢平九郎の墓の三回目です。自決の地リンク     全洞院墓

 

場所は「越生駅」西側から、すぐの場所にあります。

 

 

多くの宝物が残されており、重要文化財などに指定されています。

同じ宗派ですが、私が住職をする寺とは、歴史も規模も大違いです。

 

 

渋沢平九郎埋首の碑は、墓地に向かう階段の途中にあります。

 

 

明治7年(1874)、全洞院と法恩寺の渋沢平九郎お骨は、場所が分からないようです。谷中の渋沢栄一家の墓に移されましたと書いてあるサイトもありましたが、事実ではなさそうです。

渋沢栄一家の墓にある平九郎の墓は、石塔が深谷に写されたようです。事実か分かりませんので、後日確認したいと思っています。ストリートビューで見ても、谷中には他の方が紹介している石塔がありませんでした。渋沢栄一家 谷中墓地 地図

全洞院のように墓は作らなかったようです。

この碑は、昭和39年に建立されました。

 

 

境内は広く、また整備されていました。

 

 

法恩寺 ホームページlink

法恩寺 埼玉県入間郡越生町大字越生704  地図

 

 

←渋沢平九郎の墓 全洞院 埼玉県越生町          円泉寺と七観音石塔 埼玉県越生町

 

渋沢平九郎の墓 曹洞宗 全洞院 埼玉県越生町

自刃した渋沢平九郎の墓が全洞院にあります。

渋沢平九郎自決の地の続きです。

 

 

全洞院の道を挟んで反対側に熊野神社があります。広い駐車場がありますので、ここに駐めました。

以前に熊野神社に詣でた折りのブログです。リンク

 

 

熊野神社には、ハイキングや写真撮影の人を見ましたが、全洞院まで行く人は私を入れて3人だけでした。平九郎の墓まで行ったのは私だけです。

それでも以前神社に来たときは、私一人でした。

新型コロナウイルス流行のため、意識して人の少ない場所を選んでいるのかも知れません。私と同じです。

 

 

渋沢平九郎の墓があるのは知りませんでした。自決の地は20年ほど前に行ったことがあります。

 

 

墓は一番上の奥でした。

 

渋沢平九郎墓

 

明治7年(1874)、渋沢平九郎のお骨は、谷中の渋沢栄一家の墓に移されました。渋沢栄一家 谷中墓地 地図

その後に、この墓石が建立されています。

渋沢栄一家の墓にある平九郎の墓は、石塔が深谷に写されたようです。事実か分かりませんので、後日確認したいと思っています。

 

 

明治32年・45年に渋沢栄一は、墓参りに訪れています。

 

全洞院は越生七福神の札所になっていますが、御朱印は龍穏寺で受け付けています。

 

 

全洞院  埼玉県入間郡越生町大字黒山734 地図

 

←渋沢平九郎自決の地 埼玉県越生町               法恩寺 渋沢平九郎の埋首の碑 埼玉県越生町

 

渋沢平九郎自決の地 埼玉県越生町

渋沢平九郎を知らない人が、ほとんどだと思います。富岡製糸場の初代工場長だった尾高惇忠の弟、日本資本主義の父と言われた渋沢栄一の見立養子でした。

飯能戦争で自決した地、越生町の墓を二ヶ所を廻りました。お墓は改めて二回に分けます。

     渋沢平九郎wikipedia リンク

 

 

明治元年、鳥羽、伏見の戦の後に彰義隊が結成されましたが、袂を分けて振武軍を結成し、平九郎は右軍頭取となっています。彰義隊wikipedia リンク

 

慶応4年(1868)2月18日に振武軍は、新政府側と戦い続けることにしました。

翌19日に彰義隊の敗残兵とともに一橋領が17ヶ村ある飯能を選び、寺院に宿営しました。

本陣は能仁寺に置きましたが、圧倒的な火力、兵力のために、わずか一日で敗走しました。振武軍最期の地となったわけです。

 

 

逃げた渋沢平九郎は、顏振峠にある茶屋で休息しています。

現在は平九郎茶屋となっており、ここに行きましたら女主人より話を聞くことができます。ただし、ここの美味しいうどんを食べながらにして下さい。

 

この後、黒山村(越生町)に至って、新政府軍に見つかりましたが、どうにか振り払うことができました。

しかし、銃撃により負傷し、ここで自刃したのです。

遺体は近くの全洞院に葬られました。首梟は法恩寺の前にさらしものにされましたが、法恩寺に埋葬されました。

明治7年(1874)に渋沢栄一により、遺骨を谷中の渋沢家墓地に葬ったそうです。いずれ渋沢家墓地にも、お参りしたいと思います。渋沢栄一家の墓 地図

 

平九郎ぐみ

 

バスの止まっている場所は、駐車禁止です。

このすぐ手前が自決の地です。

 

平九郎茶屋に行ったのは、二年前でしたので、状況が変わっているかも知れません。

埼玉県飯能市大字長沢1562 地図

 

平九郎茶屋の後に、黒山の自決の地に向かったのですが、土砂崩れのため通行止めになっていました。

現在の状況は不明です。

このあたりは、ときがわ町、越生町、毛呂山町に接しています。西に向かえば秩父に行くことができます。

 

渋沢平九郎自刃の地  埼玉県入間郡越生町大字黒山 地図

 

←観音寺の板碑 埼玉県吉見町             渋沢平九郎の墓 全洞院 埼玉県越生町

 

コロナで破綻した会社がありました 元檀家の勤務先

いまから10年程前、ある檀家さんが亡くなりました。

しかし私が葬儀を行わず、葬儀社紹介の僧侶が執り行うことになったことがあります。

喪主が相談に来ると、やたらと昔の組合員風な口調でした。

寺は檀家から搾取していると、暗に言っています。

当寺はまだしも寺院は大変な時代を迎えているのです。これからどれだけ廃寺になるか見当つきません。

 

その家は墓の工事をしていませんでした。

墓地の工事費も高すぎると言っています。ネットでは「‥‥‥」。結局墓を返していただきました。

 

後日、伯母さんが来られて笑っていました。49日忌に某霊園の墓に納骨したのですが、お骨が二人分しか入らない墓だったそうです。

身内でありながら笑われてしまった甥に、他の親戚もあきれ果てたようです。安い墓を見つけたと言っていたそうです。

 

その人の会社は、労働争議で破綻寸前になり、他の企業が救済しています。

数十年の間、経営も安定したように見えましたが、記事によるとジリ貧が続いていたようです。この新型コロナには、手も足も出なかったようです。

親会社は見捨てました。

おそらく定年で退職しているでしょう。退職金がもらえただけでも良かったと思いますが、後輩達が気の毒と思っているでしょうか。

 

←香林寺 馬頭観音石仏 埼玉県東松山市                クチナシの花→

 

ツタンカーメンの椅子レリーフ 京都科学標本レプリカ

父に連れられて、東京国立博物館を見学したのは、中学生(1965年(昭和40年))の時でした。鶯谷駅から歩いたのを覚えています。

催しはエジプト「ツタンカーメン展」(カイロ博物館所蔵品)でした。覚えているのは「黄金のマスク」のみです。紀元前14世紀の展示品でした。

 

たまたまネットオークションを見ていると、ツタンカーメンの椅子を基にしたレリーフが出ていました。

調べてみるとツタンカーメン展で展示されていた椅子の一部分です。

貴重な物ですので、このレプリカはカイロ博物館の許可を得て、博物館で販売されていたのではないかと思います。

 

 

あわせてツタンカーメン展の図録も落札致しました。

 

唯一覚えていた黄金のマスクです。

とにかく人、人、人の波でした。かなり離れた位置から見学したことのみ覚えています。

 

 

エジプトの貴重な遺跡は、ナポレオンの遠征の時より盗掘が本格化し、ヨーロッパに運ばれました。

唯一ツタンカーメンの墓は、盗掘を免れていました。

 

王家の谷にあるツタンカーメン墓入口

 

杉で作られた椅子

 

図録を見ると、この椅子の一部を写したことが分かります。

 

 

有名な黄金の椅子ではなく、杉の椅子でした。この時、黄金の椅子は展示されていません。

 

 

新型コロナウイルスのため、いろいろな催しが取りやめになっています。安全のため都内に出るのは、まだまだ先になるかもしれません。

落ち着いたら博物館、美術館、庭園などを巡りたいと思っています。

 

ツタンカーメンWikipedia リンク

 

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横室の摩多利神碑 群馬県前橋市 横室歌舞伎衣装脇

先ほど参拝した金剛寺の御住職に、近くの摩多利神石碑を案内していただきました。

気さくな御住職さまです。

横室の摩多利神は、一切情報がありませんでしたが、さすが地元の方だと思いました。

 

 

横室歌舞伎として知られているようです。衣装が群馬県の民俗資料となっていました。

調べると歌舞伎は色々情報がありますが、そばにある摩多利神には興味がないのでしょう。

 

 

衣装をしまう蔵の向かって左側の石碑が、摩多利神さまです。

ここでも赤痢などの流行病(はやりやまい)のため、疫病退散の祭礼が行われていたのでしょう。

 

 

裏に回ると安政2年と彫られています。

 

 

こちらが歌舞伎衣装を保管している建物です。

 

 

七代目・市川團十郎(寛政3年(1791年)- 安政6年3月23日(1859年4月25日))の衣装が、保存されているのには驚きました。

後で気がつきましたが、建物脇の庭園が趣があり、楽しめそうです。

 

横室の歌舞伎衣装  群馬県前橋市富士見町横室  地図

 

←真言宗豊山派 金剛寺の摩多利神堂 群馬県前橋市関根町                 ヤマアジサイ→

 

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