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重要文化財 平山家住宅 熊谷市樋春(ひはる)

ここは中世の館跡だそうです。

平山家の先祖は天正18(1590)年、深谷城落城後にに土着し、代々世襲名主を務める旧家となりました。

この建物の前に新しい住宅があり、現在はそちらに住んでいるようですが、まだ使用されているようです。

かつては樋春は樋口(ひのくち)村と言い、荒川の水を松材で作った樋管から、流域十数ヶ村に用水を通す樋の口のあった場所でした。

樋管と用水路の管理は、平山家の重要な仕事だったそうです。

ここまで立派な江戸時代の建物は少ないですが、規模は違っても私の子供の頃にはいくらでもありました。

 

 

館跡の堀なのか、低地ですから後世の堀なのか不明です。裏はかなり広い屋敷林です。

周囲は一面の水田だったのでしょう。すぐ裏はしばらく行くと荒川ですので、林の北側には深い堀がありました。用水かもしれません。

 

かつては長屋門もあったようです。

 

庭まで車で入って良いのか分かりませんでしたので、少し広がった道ばたに駐めさせていただきました。

平山家住宅 埼玉県熊谷市樋春974-8  地図

ヤフーブログの移転先

ヤフーのブログが無くなります。
そのため、かなりの数のブログを円泉寺ブログに移しました。
今後はブログは主に、円泉寺ブログとなります。
 
Yahoo!ブログよりの移行先は、訳あってSeesaaとする予定です。
現在のSeesaaブログには移行できませんので、新たに作る予定です。
 
もう一つ開設したのが、gooです。こちらは新規です。
 
 
 
今後は、円泉寺ブログ以外ははSeesaaかgooのどちらかとなります。あるいはサブホームページのブログに力を注ぐかも知れません。
 
 

曹洞宗・宗心寺 阿弥陀如来複合青石塔婆 板碑 埼玉県嵐山町

宗心寺には室町時代の阿弥陀如来と梵字の彫られた複合板碑(青石塔婆)があります。

旗本1200石・折井家の菩提寺ですので、有力な寺院だったと思います。

たぶんリンク先の折井氏と思います。折井氏リンク

境内入り口の両側には門柱があり、小さな狛犬が乗っています。この意匠は面白いですね。

 

風神雷神の石仏は、初めて見ました。

曹洞宗宗心寺  嵐山町山田1055 地図

 

阿弥陀如来と梵字の複合板碑です。

残念ながら梵字・キリークが上部に彫られていますが、ほとんど欠けています。

文永八年(1270)

 

琵琶がたわわになっていました。

 

困った御朱印マニア

先月でしたが、御本堂で49日忌の御法事の最中に来られた御朱印マニアのことです。

納骨の準備をしていた石屋さんが、御法事中に 「住職を呼んでこい! 」と怒るだけでなく、無理矢理に本堂を開けようとした人がいると話していました。

石屋さんは必死に止めたそうです。

来られた方は、しぶしぶ差し替えを持って帰ったそうです。他でも問題を起こしているのでしょう。

ある時は、これから御法事で正装でいるにもかかわらず、「急いでいるんだから、すぐ書いてください!」と言う人がいました。

始まる寸前のでしたので、「1時間後に来て下さい」と言うと、怒り出した人がいました。

時間があれば墨が付くと困りますので、着替えて書いたこともあります。

 

檀家さんが御朱印に来られ聞いたのですが、ある寺か神社で、その人より先に御朱印を申し込んだ人が大柄だったために、その時「今日は書かない!」と言われたそうです。

仕方なく後日お参りに行ったこともあると話していました。

「御朱印 受け付けません」の張り紙を見たこともあると話していました。

 

御朱印ブーム以前は大柄な人がいました。

近頃は良くなったと思っていましたが、マダマダいるのですね。

 

江南文化財センターの阿弥陀三尊・善光寺式阿弥陀三尊板碑 板石塔婆 大沼公園 埼玉県熊谷市

江南文化財センターには、記年名のある板碑では日本一古いと言われています。調べると日本で三番目となるようです。

記年名の明らかな板碑は、真光寺、江南地区など、熊谷近辺に集中しています。

古い信仰心のある武将や僧侶の存在があったようです。

江南文化財センター  埼玉県熊谷市千代329 地図

中に入ると、発掘された数多くの土器が展示されていました。

 

平安末期の金銅阿弥陀如来像

 

寺内廃寺模型

 

今回は国史跡幡羅官衙遺跡群遺跡の出土品が展示されていました。

 

塩古墳群の石室

 

今回の目的である板碑が展示されていました。

 

かつて大沼公園にあった阿弥陀三尊板碑です。鎌倉期のこの地に阿弥陀信仰が盛んだったことが知れます。

嘉禄三年(1230)三尊

大沼公園にはレプリカがあります。

 

善光寺式阿弥陀三尊板碑  寛喜二年(1230) 

嘉禄三年(1230)と 寛喜二年(1230)は同じ年名のですね。

 

弘安銘曼荼羅板石塔婆

 

板碑ばかり気にしていましたが、下の塚の上にある卒塔婆や四十九院と思われる塔婆がこの時代にもあることを知りました。

 

この後、大沼公園に向かいました。駐車場は沼の南側にあります。看板がないので、釣りの方に聞き止めることができました。

大沼公園

 

何人かの釣り客がいましたが、ここでは御夫婦で釣りをしています。

 

弁天堂の北側にあるのが、阿弥陀三尊板碑です。

 

レプリカの阿弥陀三尊板碑

本物は、ここから江南文化財センターに移されて、展示してあります。

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樹木葬 ?

ブログを始めたから各地に出かけているのか、出かける口実のためブログを書いているのか分かりませんが、お寺参りも多くなりました。

かつて永代供養施設のなかった寺院でも、巡った場所でよく見かけるようになりました。

 

樹木葬も増えています。初めて見た樹木葬は樹木が沢山あり、公園の一角のようでした。でも経費が高い施設でした。

せいぜい5、6坪の敷地に小さなカロートをいくつも作り、四角や丸の墓誌を兼ねた蓋があるだけの施設が増えています。

しかし、樹木の中に永代の施設があるのではなく、施設の周りに低木がある、あるいは草花だけの樹木葬が多くありました。

 

当寺の永代供養塔の方が、合祀ですが樹木には恵まれています。

一角に紫陽花を植えました。

大きくなるのが楽しみです。

円泉寺永代供養塔link

 

嵐山史跡の博物館と菅谷館 埼玉県嵐山町

菅谷館跡を散策する前に、嵐山史跡の博物館で知識を蓄えました。

すぐに忘れてしまうのでしょうが。

 

何度か来ていますが、最初は嵐山町でなく菅谷村だったように思います。

嵐山町は秩父氏の本拠地でした。現在の秩父市から畠山の地に移り、畠山を名乗りました。

嵐山史跡の博物館 埼玉県比企郡嵐山町菅谷757

ホームページ        地図

 

博物館に入ると畠山重忠が迎えてくれます。その当時の歴史を簡単に聞くことができます。

 

ビデオで見る「男衾三郎絵詞の解説」からも、その時代の武士の生活を知る事ができます。

菅谷村当時の地図の上に遺跡群が表示されています。鎌倉街道にある重要な地域として、畠山氏やその後の戦国武将の城跡として、、重要な地域だったことが分かります。

 

発掘それた陶器などが数多く展示されていました。

その中で一番注目したのが、金箔を施された板碑です。

菅谷館で発掘されましたが、いままでに金箔を施されているのを見たことはありません。

板碑は埼玉県が一番多いのですが、他にもかつては施されていた者もあるに違いありません。

 

輸入された唐物の陶磁器は、憧れの元だったようです。よほどの財力がない限り求めることはできませんでした。

日本でも生産され、比較的裕福な人が帰るようになったのは、優れた陶磁器の生産地と流通が発展してからです。

都内の博物館で、京都で発掘された陶磁器の問屋街状況を展示していたのを見た記憶があります。

 

引き続き菅谷館跡の散策です。

畠山重忠の父・重能によって築かれ、戦国末期まで使用されました。

 

ここの高くなった場所に畠山重忠の像があります。

先ほどの嵐山史跡の博物館の近くです。

 

土塁、堀、郭で何重にも防備を固めています。

 

敷地をさらに南に行くと都幾川に出ます。鎌倉街道だけでなく、この川も重要な水運と道だったと思います。

 

飯能で一、二を争う狭く、細い公道

飯能駅とぺぺの北側、みずほ銀行西側にある細い道です。

一応公道なのですね。

 

 
 
 

 

地図  地図を拡大していただくと、狭い道が確認できます。

約60数メートルです。

畠山重忠墓 埼玉県深谷市

かなり以前にここに来ました。また今から8年ほど前にも訪れています。

三度目の参拝になると思います。

 

一ノ谷の戦いでの「鵯越の逆落とし」で、よく知られる愛馬三日月を背負って降りる像です。

 

駐車場から少し歩くと五輪塔が六基あります。

初めて行ったときは、小屋がなかったと思います。記憶定かではありませんが。

 

この地に館があり、北条氏に卑怯な手で討たれた後に、五輪塔が建てられたことが書かれています。

中央が重忠の五輪塔のようです。

一時、近くの畠山氏の菩提寺・満福時に移されたこともあるそうですが、再びここに祀られました。

 

重忠の百年忌に建立された板碑だそうです。キリーク(阿弥陀如来)の梵字が彫られています。

 

重忠産湯の井戸だそうです

この後、畠山氏菩提寺・万福寺に向かいました。

弁財天の絵銭

江戸時代の二種類の弁財天絵銭です。

左が面、右が裏です。

弁財天絵銭1

 

弁財天絵銭2

 

今では成田山など、落慶などの記念品として配布されたりしますが、この当時は子供のおもちゃだったそうです。

お札のように持ち歩き、大事にした大人の人もいたのではないかと思います。

 

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