畠山氏の勧請した井椋神社 深谷市畠山
天治2(1125)年に畠山重忠の父・重能が畠山庄司となり移り住み、祖父の重綱が秩父郡吉田郷芦田村の椋神社をここに勧請しました。
後に井椋神社に改称しました。
満福寺の東脇が参道になっています。もともとは一体の敷地でした。
廃仏毀釈までは、満福寺が別当でした。
蚕影神社
井椋神社 埼玉県深谷市畠山942 場所
天治2(1125)年に畠山重忠の父・重能が畠山庄司となり移り住み、祖父の重綱が秩父郡吉田郷芦田村の椋神社をここに勧請しました。
後に井椋神社に改称しました。
満福寺の東脇が参道になっています。もともとは一体の敷地でした。
廃仏毀釈までは、満福寺が別当でした。
蚕影神社
井椋神社 埼玉県深谷市畠山942 場所
畠山重忠菩提寺の満福寺です。
畠山重忠公史跡公園にある重忠公の墓は、江戸時代ここに移され、明治に畠山氏の館跡だった元の場所に戻されました。
格式を感じる立派な御本堂です。御本尊はお不動様のようです。
重忠公・実山宗真大居士位牌も祀られています。
観音堂と御本堂
観音堂には、重忠公の守り本尊・千手観音像が祀られています。
観音堂右脇には重忠廟がありました。かなり以前お参りに来たときは、外柵がなかったように思います。横並びでした。
重忠廟石塔
梵字キリーク(阿弥陀如来)の板碑
立派な宝鏡院塔の後ろに重忠廟の石塔があります。
馬頭尊、金比羅大権現、畜霊之碑などが並びます。
馬頭尊の後ろには、荒神様、如意輪観音様の石仏がありました。
満福寺 埼玉県深谷市畠山931−1 地図link
かなり以前にここに来ました。また今から8年ほど前にも訪れています。
三度目の参拝になると思います。
一ノ谷の戦いでの「鵯越の逆落とし」で、よく知られる愛馬三日月を背負って降りる像です。
駐車場から少し歩くと五輪塔が六基あります。
初めて行ったときは、小屋がなかったと思います。記憶定かではありませんが。
この地に館があり、北条氏に卑怯な手で討たれた後に、五輪塔が建てられたことが書かれています。
中央が重忠の五輪塔のようです。
一時、近くの畠山氏の菩提寺・満福時に移されたこともあるそうですが、再びここに祀られました。
重忠の百年忌に建立された板碑だそうです。キリーク(阿弥陀如来)の梵字が彫られています。
重忠産湯の井戸だそうです
この後、畠山氏菩提寺・万福寺に向かいました。
畠山重忠公史跡公園 埼玉県深谷市畠山510−2
先日、めぬま道の駅のバラ園に行きましたが、今回は同じ熊谷市でも旧江南地区にあります。
ここはマッタク知らない場所でした。
埼玉県熊谷市押切2409−1 地図
ここで入場料を払います。飲み物代も含まれています。
マクロレンズも持ってくれば良かったと思いました。
何本か紫の房をつけたスモークツリーがありました。時折消毒しないと行けないようです。
ほとんどが女性客でした。男性は3人だけです。
一人の女性は、Canonのフルサイズで撮影していました。
私はホットコーヒーを飲みました。
いつもなら紅茶が多いのですが、近頃はコーヒーを飲むことが増えました。
店長さんに色々質問している人がいます。
気軽に的確な返事をしているようでした。バラを栽培している人が多く来ているのでしょう。
秋にも開くのだそうです。
ホームページを確認してください。
追記 2019/10/30
台風のあとで、花にも被害がありました。
本日は仲間4人とリース作りに挑戦です。
お二人のご婦人達は、バラを栽培しているようで、権田夫人に色々な質問をしていました。
完成間近ですが、納得できるようにはなりませんでした。
美的センスがなさそうです。
2020/05/25
今回で三回目になります。
前回行ったおりに権田夫人は、ご主人が私と同じ高校を卒業していると話していました。
本日ご主人とお目にかかり、7年後輩なのだそうです。
私はいい加減な生徒でしたが、かなりしっかりとした高校生活を送られたようです。
皆さん三密にならないよう、十分間隔を開けていましたが、気に掛ける必要がないほど、自然な流れでした。
私はバラの名前を一切知りませんが、来ている方々は詳しい方が多いようでした。
かなり画像をいじってみました。こんな色のバラはありませんよ !
また秋にも来ようと思います。
2020/05/29
イギリスの映画ですが、「秘密の花園」です。
制作総指揮はフランシス・フォード・コッポラです。
両親に死なれた10歳のメアリーが、叔父に引き取られ、荒れ果てた「秘密の花園」 を再生する物語です。
きれいなバラも開き、心も開いていきます。
「小公子」「小公女」で知られるフランシス・ホジソン・バーネットの本は、子供の頃に読んだと思っていたのですが、DVDを取り寄せて観ると記憶違いでした。
知っている俳優は、女優マギー・スミスのみです。
本も取り寄せて読むつもりです。
2020/05/31
「秘密の花園」フランシス・ホジソン・バーネット著
本当は挿絵の多い本を買えば良いのですが、安い文庫本です。
何時読み始めるかは分かりませんが、来月中には読み終えたいと思います。
自宅にこもっていますので、今は推理小説ばかり読んでいます。
過去に読んでいた本もあるのですが、かなり忘れています。最後の結果を読んで、この本を読んだことがあると、思いだしたこともありました。情けない限りです。
追記2020/10/20
今回は気候が最悪だったために咲き具合が悪く、バラ園は残念ながら撮影はしませんでした。
権田ご夫妻だけでなく、常連の方々もガッカリされたと思います。
新商品のハンプシャー・ガーデンクラフト社の石のオーナメントです。
ここに来る直前にスマホに来客の連絡があり、無料リース作りを勧められましたが、前回のセンスの無さと時間が無いため、お茶だけ飲んで帰ることにしました。
すると奥様手作りの小さなリースをいただきました。
寺の百日紅の幹に吊り下げてみました。薄暗くなっていましたので、良さが半減しています。
江戸時代の二種類の弁財天絵銭です。
左が面、右が裏です。
弁財天絵銭1
弁財天絵銭2
今では成田山など、落慶などの記念品として配布されたりしますが、この当時は子供のおもちゃだったそうです。
お札のように持ち歩き、大事にした大人の人もいたのではないかと思います。
荻野吟子が学んだ「行余書院」のあった大龍寺です。
門前に不動堂や弘法大師八十八ヶ所の碑がありましたので、浄土宗の大龍寺とは別の寺院かとも思いましたが、大龍寺の御堂でした。
弘法大師八十八ヶ所の碑
五輪塔の石仏?
間違いなく浄土宗の寺でした。
開山は徳川家康・秀忠の帰依した演蓮社智誉幡随意上人だそうです。幡随意上人Wikipedia
大きな墓石を集めた無縁塔です。
その周りには沢山の石仏が祀られていました。よく見ると塔の中にも石仏があります。
立派なお地蔵様と聖観音様の石仏も祀られていました。
画像を調整していると、間違えて変な色彩になりました。
でも面白いですよね。
薬師堂も一枚。
浄土宗 大龍寺 埼玉県熊谷市葛和田898 地図
赤岩不動光恩寺には荻野吟子の実家長屋門が移築されていると聞きましたので、参拝に訪れました。
荻野吟子記念館からは、利根川をまたいて反対側にあります。
大祭は毎年3月28日、10月28日に行われます。
火渡りが行われるようです。
赤岩不動光恩寺 群馬県邑楽郡千代田町赤岩1041 地図
緑豊かな境内です。
歴代住職の墓に面して、たくさんの板碑がありました。
特に知られているのは、大きな地蔵菩薩画像の彫られた板碑です。
文永8(1271)年で、画像板碑としては最古に属するようです。
善光寺式阿弥陀三尊板碑が、歴代住職の墓に祀られていました。
赤井照光の墓に向かう途中に、六面地蔵塔、荒神様が祀られていました。かなり大きな石仏です。
赤井照光の墓は、堂山古墳の頂上にあります。
元禄16年の梵鐘です。千代田町指定重要文化財に指定されています。
阿弥陀堂には阿弥陀三尊が祀られ、鎌倉時代の大きな御尊像です。こちらも千代田町指定重要文化財に指定されています。
睡蓮が咲き出し始めていました。これから次々に咲くのでしょう。
荻野吟子実家の門は、東側の駐車場に面してあります。
ここにも石像がありました。
二人の女性が熱心にスマホで写真を撮っていましたので、女性のスマホで記念撮影を買って出ました。
荻野吟子巡りをしているようです。
荻野家より移築された長屋門です。
光恩寺の近くにある赤岩渡船場です。対岸には荻野吟子記念館があります。
以前にもお参りしましたが、豊か緑が気持ちの良いお寺です。
今から40年以上前も私が学生時代にもお参りに来ましたが、俳句寺としても知られ、いまでも句会が開かれているようです。
また、常光院は熊谷大師として知られています。
弘法大師と思っている方もいますが、元三大師です。ちなみに佐野やよけ大師も元三大師です。
熊谷市や羽生市の古代は、利根川の低地に条里制がひかれました。広大な土地が農地として整備され、四角に区切られた広い田が整備されています。中条の地名はここからおきています。
有力な氏族の古墳が多く残されています。特に羽生市の埼玉(さきたま)古墳群は有名です。埼玉地名の起こりの地域です。さいたま市は早い者勝ちで付けた市名です。
常光院は中条氏の館跡です。栃木県の鑁阿寺ほどではありませんが、鎌倉時代の屋敷跡とハッキリ分かる敷地です。現在は三分の一が常光院に残されています。
30年程前にも来たときは、南の方に狭い駐車場があっただけだったと思います。今は敷地から離れていますが、東側に広い駐車場があります。
広い境内は豊かな緑にあふれています。
ここは武蔵国十三仏霊場 第十三番 虚空蔵菩薩の札所ですが、他の仏様も境内には祀られています。
十三仏詣で方々、散策するのも良いでしょう
納経塔前の池
中條判官藤原常光の墓
江戸時代の直参旗本・天野氏の墓
山王社
俳句寺と言われるように、いくつもの句碑が広い境内にありました。
副住職さんと思われる方が、掃き掃除をしていましたが、これだけ広いとさぞかし大変だと思います。
今から十数年前、たぶんここだったと思いますが、迷って来た記憶があります。看板があり、日本最初の公認された女医とあったように思います。
公認制度のなかった時代のシーボルトの娘・楠本イネは、医師として築地に開業しています。楠本イネWikipediaリンク
当時、楠本イネは知っていましたが、荻野吟子「嘉永4年(1851)~大正2年(1913)」はマッタク知りませんでした。
まだ妻沼町でした。下の看板だったのかもしれません。熊谷市に張り替えてあります。
ここのことは上のPDFが、簡潔に述べられていますので、ぜひ参照してください。
この図は記念館内部にありますが、吟子の生まれた荻野家は、利根川の淵にありました。先祖は栃木県の足利から移住してきたそうです。
当時は利根川が水運の地として栄えていましたが、俵瀬は江戸幕府の方針でここだけ堤防がありませんでした。氾濫時の遊水池としての役割がありました。この氾濫のため農作物が豊かに実りました。
このあたりの家は氾濫に備えて、少し高く土盛りした上に建っていたようです。
この絵に見える長屋門は移築され、対岸の群馬県千代田町にあります。
千代田町側から見た俵瀬です。高い土手があるのが分かると思います。赤堀渡船場があり対岸に渡ることができます。
荻野吟子記念館全体の内部写真を撮り忘れました。情けない!
先ずは6分間のビデオを見せていただきました。三田佳子さんの演劇の取材シーンからです。
係員に案内をしていただきました。
1868年に結婚しましたが、性病をうつされて離婚後に東京で治療をしました。
この時、女医になる決心をしたそうです。
夫の稲村貫一郎は、離婚したとしても親戚として付き合おうと言い、治療、学校への学費から生活費、開業費、再婚後の他の夫への事業資金まで負担していたそうです。
この写真でも分かるように、吟子は小柄な美人だったそうです。
女子師範学校を卒業後、私立医学校好寿院に入学しました。しかし、周りは男子ばかりで冷たくされたようです。
卒業後もなかなか医師試験を受けさせてもらえませんでした。
埼玉県出身の塙保己一の令義解に古代に女性医師がいたことがわかり、医師試験を受けることができました。
やたらと杓子定規な役人がいたようです。
明治17年、34歳で前期試験に合格し、翌年後期試験に合格しました。
5月に湯島に開業しましたが、待合室が女性患者であふれるほどでした。
この後、キリスト教への入信、再婚、北海道での開業など、続くわけですが、先のPDFと東京女子医大のリンクした資料などを参照してください。PDFリンク
利根川の水運も高崎線が通ったために衰退しました。
荻野吟子の兄弟は皆、嫁に行ったり他に移り、ここにはありません。近在の荻野姓の家がありますが、それ以前の分家筋になるそうです。
吟子が学んだ「行余書院」のあった大龍寺です。埼玉県熊谷市葛和田898
聖天山の山門の天井画の一部は、荻野家が納めた画もあるそうです。聖天山歓喜院 熊谷市妻沼1511
ここの繁栄を支えたのが、利根川の水運でした。
私が学生当時は、東武熊谷線は熊谷駅から妻沼駅まで延びていましたが、廃線となっています。
赤岩不動・光恩寺には、移築された荻野家の門と荻野吟子の像があります。光恩寺 群馬県邑楽郡千代田町赤岩1041
めぬま道の駅 バラ園内
すでに妻沼聖天山の板碑を御紹介しているのですが、他のヶ所も含め掲載させていただきます。
歴代住職の墓にありますが、中に入ることはできません。
画像はトリミングしてあります。
槙の寺として知られているようです。よく手入れのされた大木でした。
善光寺式阿弥陀三尊板碑は円通閣(観音堂)の向かって右側前の板碑です。
善光寺式阿弥陀三尊板碑
円通閣には、風神雷神の像も祀られています。
長野の善光寺が火災に遭うと、全国に勧進聖が浄財を勧募するために全国に向かいました。
その折り、善光寺の功徳を広めたため、善光寺信仰が全国的になったようです。
善光寺式阿弥陀三尊板碑が、この地域に集中するのは、深く信仰する人がいたからようです。