曹洞宗 宝城寺 埼玉県嵐山町
宝城寺には摩利支天の石碑が祀られていますので、他の寺を参拝する途中に、急遽寄ることいたしました。
武蔵メモリアルパークを経営しているようです。
よく整備された寺院でした。
一角に摩利支天の石碑が祀られています。
宝城寺 埼玉県比企郡嵐山町志賀1478 地図link
宝城寺には摩利支天の石碑が祀られていますので、他の寺を参拝する途中に、急遽寄ることいたしました。
武蔵メモリアルパークを経営しているようです。
よく整備された寺院でした。
一角に摩利支天の石碑が祀られています。
宝城寺 埼玉県比企郡嵐山町志賀1478 地図link
光明寺は当寺と同じ真言宗智山派に属しています。
光明寺のfacebookを見て、参拝することに致しました。 光明寺facebook link
御住職が庭で伐採した樹木を片付けていました。お顔を見ると数十年前に何度かお見かけしています。
私のことは知らないと思いましたが、お声を掛けさせていただきました。
すると手を休めて庫裏の縁側で、お茶とお菓子を出していただき、お話をさせていただきました。
越生の法恩寺御住職が務めた埼玉十一教区長を引き継ぎ、四期も務めていたそうです。信頼されていたことが分かります。
お話をすると私の知っている御住職の話が次々と出てきます。
境内も高齢でありながら、副住職山と二人で整備しているようです。私にはもとてもできません。
先日の大風で落ち葉が大変だったようです。毎日木の伐採や落ち葉は木など、忙しそうです。
天正18年に出された前田利家の貴重な文献も残されています。
お墓の入口には地蔵菩薩や如意輪観音の石仏が祀られていました。
六地蔵石幢
如意輪観音
お寺に猿田彦の石碑は初めて見たように思います。
どこからか移されてきたのかも知れません。
光明寺 埼玉県比企郡ときがわ町玉川3017 地図リンク
成田山の分院は各地にありますが、必ずしも真言宗智山派ではありません。
醍醐派、豊山派の後に単立となった修験の寺です。
開山は宇多天皇の御代ですので、かなり古い歴史がありますが、詳しい記録は残されていません。
成田山不動明王の御分身を祀って成田山を名乗りました。
石仏が祀られていましたが、線刻の不動明王でした。
山城國大本山三寳院門跡とありましたので、醍醐派時代の石仏と思います。
清宝院は青梅七福神の内、恵比須尊を祀ります。
向かって左が稲荷、右が牛頭天王のお社です。
毎年境内では火渡りの儀式が行われます。
成田山清宝寺 東京都青梅市大柳町1203 地図
お伊勢の森神明社は新青梅街道に面しています。
境内には広い駐車場が用意されており、お正月の参列者が多いことをものがっています。
神明社はお伊勢様と呼ばれています。
宝暦12年(1763)の創建です。意外と新しい神社でした。
境内では、お正月の片付けをしていました。
御本社西側を北に向かうと、素晴らしい石灯籠があります。虎、獅子、龍などが彫られていました。
かなり優れた石造物です。
お伊勢の森 神明社 東京都武蔵村山市中央2丁目125−1 地図 ホームページlink
最初はは天台宗寺院でしたが、文禄2年(1318)に臨済宗寺院になりました。
経営する幼稚園から、園児の元気な声が聞こえます。
立派な山門には、優れた像が祀られています。
御本堂前庭の砂利に職人さんが熱心に筋目を入れていました。禅宗らしい庭です。
後で知ったのですが、観音堂は橦木造で、格天井に花・卉・鳥・獣などの絵、龍の図が描かれているそうです。
小さな五重塔が建てられていました。昭和59年の建立です。
五重塔の北側には弁財天が祀られています。
弁財天前から階段を下ると、御本堂西脇の斜面に十六羅漢像が祀られていました。
福正寺 東京都西多摩郡瑞穂町殿ケ谷1129 地図
←円福寺 東京都瑞穂町 お伊勢の森 神明社 東京都武蔵村山市→
円福寺は瑞穂町で一番大きな寺院と聞いています。天元元年(1573)の開山です。
ある当寺檀家さんのご実家は、ここが菩提寺と言っていました。
幼稚園を経営しており、駐車場や門前に母親達が子供を送りに来ていました。
立派な仁王門です。
全ての建物が戦後に新築されているようです。
御本堂
観音堂
牡丹の頃にお参りするのが、一番良さそうです。
以前当寺で求めた熊野観心十界図の巧芸品です。この図の大元は円福寺の寺宝です。
室町時代の掛軸で東京都指定有形民俗文化財になっています。
円福寺 東京都西多摩郡瑞穂町箱根ケ崎132 地図 ホームページlink
←当寺の菅公図が教科書に使用されます 福正寺 東京都瑞穂町→
善光寺をお参りしたのは三年前でした。
平日でしたが、かなり大勢の方々が参拝していました。
今年は新型コロナウイルスの為に善光寺だけでなく、不便な対応をしなくてはいけない寺社がたくさんあります。
このようなお姿が善光寺から発行されていました。
それを元に書かれた図です。
善光寺如来が天竺から信州に伝来するまでを描いた版画の掛軸です。
善光寺に浄財勧進のため、全国に散らばった勧進聖が大勢いました。勧進聖はこのような掛軸を広げて、善光寺の功徳を説いたのでしょう。
その力によって善光寺阿弥陀如来に対する信仰が広がりました。
上高井郡日滝村(現在の須坂市)の牧祥周という人が、夢に現れたお姿を自ら描きました。
善光寺塔頭の本覚院が発行したと思われます。
かつて寺竹は金子村に属していました。現在は入間市なっています。
天正15年(1587)に亡くなったた金子筑後守家定による開基です。
全国にいる金子姓は金子村が大元になっています。特にこの金子地区に多い姓です。
落ち着いた雰囲気の寺院でした。
2基の六面六地蔵石幢が祀られていました。
西脇には白山堂が祀られています。
寺の周りには地名と同じように、たくさんの竹が繁茂していました。
高養寺 埼玉県入間市寺竹1022 地図リンク
←長久寺 旗本 土屋氏の墓 埼玉県入間市 普陀大仕(観音菩薩)拓本→
長久寺には旗本の土屋氏の墓があります。
他の寺の御住職が兼務しているようです。
長久寺門柱には正保2年に、開基英俊 桓武天皇御子末裔 土屋俊次公二男成勝とあります。
さいたま市の玉蔵院住職の書です。ここの御本山は長谷寺ですが、玉蔵院の末寺なのでしょう。
広い墓域に土屋家の墓石が並んでいます。
墓石の裏のお塔婆には、施主・土屋家とありました。
土屋家は他に墓があるのでしょうが、今でも墓参りをしているようです。
御本堂前の西側には、立派な宝鏡院塔がありました。土屋家に嫁いだ方のために建てられたようです。かなり良い家柄の出だったのでしょう。
施主永田氏とありました。
長久寺 埼玉県入間市宮寺2324 地図リンク
←旗本大森氏・加藤氏の宝鏡院塔 埼玉県入間市 高養寺 埼玉県入間市→
旗本であった大森氏・加藤氏の宝篋印塔は廃寺となった崇巖寺(すうがんじ)跡にあります。
崇巖寺は大森氏が幕府の許可なく建てられたため、取り壊されました。
一番右側には「一便宗見大居士碑」があります。加藤重正の顕彰碑のようです。
正面に「崇巖院殿長誉善透大禅定門」とありましたので、大森好長の宝鏡院塔と思います。
大森好長 ウィキペディアlink 加藤重長ウィキペディアlink