他の寺社

常福寺の樹木葬・永代供養 東京都日の出町

常福寺は真言宗豊山派の寺院です。

圓秀(天正12年1548年没)により開山されました。

一度参拝に訪れたことがありました。

 

御本尊として不動明王をお祀りしています。

 

こちらの御住職とは、15年以上前に知り合ったように思います。

智山派と豊山派との違いがありますが、当寺(円泉寺)の檀家さんとの日時の調整が出来ず、代わりに行っていただいたことが何度かありました。

また、土日に葬儀をしてくれる真言宗寺院住職はいないかと、あせった葬儀屋さんから紹介を依頼され、行っていただいたこともあります。弟さんがいますので、休日にもかかわらず対応したいただいたことを思い出します。

 

 

宝篋印塔は文政元年(1818)建立です。日の出町の文化財になっています。

 

下段に梵字アと彫られた丸い石版が納めてありました。

 

この日は住職不在でしたが、樹木葬墓地の横で石材店の営業の方がいました。

この場所は残りがあとと14ヶ所になってしまい、下に掲載する場所が新たに建立されたのだそうです。

香炉が豊山派の宗紋である輪違い(わちがい)でした。

 

樹木葬の後ろに見えるのが、かつて常福寺が別当だった春日神社です。

 

御縁になった浄福寺さんですので、役に立たないとは思いますが、ブログでご紹介させていただきます。

※御住職の了解を得ています。

oohakalink link              樹木葬 天寿link

 

帰る途中にコンビニに寄ると、御住職から電話がありました。

今はお付き合いもなくなりましたが、私より元気そうです。

懐かしい声でした。

 

常福寺  東京都西多摩郡日の出町平井3687 地図link

☎0425970817   浄福寺ホームページlink

 

曹洞宗 保泉院の閻魔大王 東京都日の出町

保泉院(ほうせんいん)に貴重な閻魔大王像が祀られていることを知り、参拝して参りました。

 

閻魔堂に祀られている貴重な御尊像ですので、耐火造りの建物になっているそうです。

 

閻魔様を中心に倶生神(左右)と奪衣婆像が祀られていました。

 

胎内の銘札の写しには、文明5年(1473)仏師了戒(成)により造られたと書かれているようです。

初め閻魔像は、日奉(ひまつり)重清により平井郷の創建された閻魔堂に安置されていましたが、江戸時代末に保泉院に移されました。

 

今日参拝してきた青梅市寺院の紫陽花より、花芽が大きくなっています。

早い種類なのかも知れません。

 

 

右側の地蔵菩薩は亀踏像(きふぞう)でした。亀に乗っています。

江戸桶町の中澤佐助が宝暦3年の奉納しています。この地域から出て成功した方により納められたのかも知れません。

江戸時代に亀踏像は勝手に建てられませんでした。

 

お地蔵様は閻魔大王でもあるのです。

 

保泉院ホームページlink

保泉院閻魔堂  東京都西多摩郡日の出町平井860  地図link

 

十王堂 青梅市畑中

十王堂は、すぐに見つかりましたが、都合の良い駐車場が見つかりません。

仕方がなく少し離れた空き地に駐めさせていただきました。

 

境内に自然と咲いたピンクの草花がきれいです。

 

閻魔大王・十王・奪衣婆などが祀られていました。

この御堂の詳細は分かりませんでした。

 

急いで撮影し、車に戻りました。

 

東京都青梅市畑中2丁目455−7 地図link

 

臨済宗建長寺派 玉泉寺 青梅市

玉泉寺は文保年間(1317-1318)の開山になります。

 

山門前には地蔵菩薩など、多くの石仏が祀られていました。

 

参道の桜は数も多く、お花に来られる方々も多くいると思います。

紫陽花は、もう少しで色合いを増しそうです。

 

御本尊は十一面観音です。

 

弁天堂は青梅七福神札所となっています。

 

先に参拝していた女性は納経帳を持って、納経所に歩いて行きました。

 

弁天堂前の池です。弁天様は水神でもあります。

今でこそ境内周りは民家が並んでいますが、寺の南の山々から豊かな地下水として、さらに池を満たしていたのではと思います

 

薬師堂には大きな薬師如来像が祀られていました。

薬師如来を祀る全国の国分寺は、鎮護国家の意味合いから祀られましたが、その強い力と薬の文字から、闘病平癒や特に目の病に功徳があるとされています。

 

玉泉寺 東京都青梅市長淵3丁目299 地図link

真言宗豊山派 梅岩寺 青梅市

梅岩寺は長徳年間(995-998)の開山です。

車を駐めさせていただき、御本堂に向かいました。

 

 

御本尊は虚空蔵菩薩です。

 

ここの枝垂れ桜は、かなりの年数のようでした。山門脇にも植えられています。

花の頃は多くの方々が、おいでになるのでしょう。

大乗妙典千部供養塔

 

額に安産子育て地蔵尊とありましたが、地蔵菩薩より大きな閻魔大王像が中心に祀られていました。

 

小さなお地蔵様が左右に数多く祀られています。

絵馬を見ても安産と子育てを一心に祈った方々の気持ちが伝わります。

 

梅岩寺 東京都青梅市仲町235 地図link

真言宗豊山派 眞浄寺と十王堂・焰魔堂 青梅市

眞浄寺

眞浄寺は室町時代の大永年間(1521-27)に開山したと伝えられています。

 

御本尊は虚空蔵菩薩のようです。

 

ア字の碑の所に枝垂れ桜があります。桜が満開の頃は、さぞかし見事と思います。

 

御本堂の西側には辨天堂があります。

サツキが見頃でした。

 

辨天堂北側には観音様などが祀られていました。

左から勢至菩薩・如意輪観音・准胝観音・如意輪観音・千手観音・馬頭観音・十一面観音でした。

勢至菩薩(一周忌担当)以外は六道の衆生を救う六観音様です。

 

 

眞浄寺  東京都青梅市谷野193 地図link

 

眞浄寺には境外に十王堂と焰魔堂があります。

十王堂

御本尊は延命地蔵と十王です。

お地蔵様は「蹴飛ばし地蔵」とよばれています。青梅市文化財ニュース link

 

「村守る ふせぎの草履 都の遺産」の句が添えてありました。

フセギとは疫病や悪霊の行事です。毎年8月1日に行われています。指定文化財「青梅のフセギのワラジ」link

 

十王堂 東京都青梅市谷野67  地図link

 

焰魔堂

眞浄寺焰魔堂墓地にある御堂です。

 

閻魔大王を中心に、右に司命・司録像、左に人頭幢が祀られています。

 

焰魔堂 東京都青梅市谷野67  地図link

十王堂 埼玉県ときがわ町

十王堂は地蔵菩薩を中心に右に閻魔大王、左に奪衣婆を祀ります。

かつては十王も祀られていたのかも知れません。

どこかの寺院の境外仏堂かと思いましたが、地元の方々が維持管理しているようです。

 

道路に面して石仏が祀られています。

 

一番のお気に入りは、馬頭観音様です。

 

弁財天、大黒天、聖徳太子が並んでいました。

 

道路の反対側には大山阿夫利神社の灯籠があります。

裏面には文政八年(1825年)と明治二十八年(1895年)の文字が彫られていました。

 

十王堂  埼玉県比企郡ときがわ町五明128   地図link

 

天台宗 安養寺 埼玉県嵐山町

先ほど参拝した大蔵神社の別当であった天台宗安養寺です。

戦後に作家の今東光氏が、安養寺の復興のため特命住職をしていたことがありました。印税の中から、かなりの負担をしていたようです。 今東光ウィキペディアlink

 

山門は天保10年(1839年)の造営になります。

 

 

御本尊は阿弥陀如来です。

 

右脇の石碑は「埼玉育児院発祥之地碑」とありました。

現在は川越市に移転されていますが、安養寺住職が大正元年(1912年)に埼玉県初の孤児や貧しい子供を預かる施設を造りました。

後に東松山市に、さらに現在は川越市に移されています。埼玉育児院設立の経過 嵐山町web博物誌 link

 

かつて安養寺が別当をしていた大蔵神社 ブログlink

 

安養寺 埼玉県比企郡嵐山町大蔵299 地図link

 

大蔵神社 埼玉県嵐山町

大蔵館跡の一角にあるのが、大蔵神社です。入口は土塁の後であることが分かります。

 

神社は図の左下になります。

 

 

 

「大蔵館は、源寺の棟梁六条判官源為義の次子・東宮帯刀先生源の義賢の居館で、都幾川をのぞむ大地上にあった。現存する遺構から推定すると、館の規模は、東西170メートル・南北200メートル余りであったと思われる。館のあった名残か、館跡のある地名は、御所ヶ谷戸及び堀之内とよばれる。現存遺構としては、土塁・空堀などがあり、ことに東面100メートル地点の竹林内(大澤知助氏宅)」には、土塁の残存がはっきり認められる。また、かつては高見櫓の跡もあった。なお、館跡地内には、殿城山稲荷と大蔵神社がある。源義賢は、当地を拠点として武蔵を高めたが、久寿二年(1155年)八月十六日、源義朝の長子である甥の悪源太義平に討たれた。義賢の次子で、当時二歳の駒王丸は、畠山重能に助けられ、斉藤別当実盛により木曽の中原兼遠に預けられた。これが、後の朝日将軍木曽義仲である」

源義賢ウィキペディアlink      木曽義仲(源義仲) ウィキペディアlink

 

新編武蔵野風土記によれば、大蔵神社は安養寺が別当で、山王社であったことが分かります。

「埼玉県の神社」によると日吉山王権現と思われる僧形の立像が奉安されているとあります。

 

八坂神社

 

神楽殿

 

東側の鳥居には大蔵稲荷大明神とありました。大蔵神社と稲荷神社が合祀されているようです。

 

冨士浅間神社と山王大明神

 

次に大蔵神社の別当であった安養寺に向かいました。安養寺ブログlink

 

大蔵神社  埼玉県比企郡嵐山町大蔵522 地図link

 

曹洞宗 輪禅寺 埼玉県小川町

元々は安養寺であったと伝えられています。

この地域の領主となった川窪(武田)新十郎信俊が、慶長13年(1608年)に伝州忠的を中興として迎え、曹洞宗寺院となりました。

信俊の父である武田兵庫頭信實(武田信玄の異母弟)追福のためにために、寺院名は武田信実の輪禅寺玉輪一機居士より一機山輪禅寺に改めました。

川窪(武田)家累代の菩提寺です。河窪も使用したようです。

信俊の子・信貞の代より川窪(河窪)から武田姓に復しています。

 

 

武田信俊の描いた鷹絵図が残されています。信俊の旧家臣である千野氏・五島氏が承応2年(1653年)に奉納されました。

 

山門より御本堂に向かいました。左右に地蔵菩薩が祀られています。

境内では上品なご婦人が掃除をしていました。おそらくここの奥様と思われます。

 

参道右側地蔵菩薩の隣は千体地蔵堂です。東日本大震災で亡くなられた方々の供養のために建てられたようです。

先ほどの奥様手作りの御尊像のようです。小さな陶器の地蔵菩薩が並んで祀られていました。

 

掃き清められながら草花も大事にして、気持ちの良い寺です。

 

新編武蔵野風土記によれば「三尊の彌陀」が御本尊とありましたが、釈迦如来が御本尊のようです。

安養寺の安養は、安養浄土(あんにょうじょうど)から採られています。阿弥陀如来の浄土の意味ですので、西方極楽浄土のことです。最初は阿弥陀さまが祀られていたのでしょう。

安養山・安養院・安養寺のつく寺の御本尊は、最初の御本尊が阿弥陀如来でも、後々に他の仏さまに代わった寺もあります。

 

道元禅師銅像の前にも、手作りと思われる小さな地蔵菩薩像などが祀られています。

その周りには小さな紫色の草花が咲いていました。

武田家の墓地に向かいます。

 

川窪(武田)家累代墓地

川窪家は元禄10年(1697年)に知行替えとなりましたが、それ以降の江戸末期までも菩提寺としています。

大名家並みの大きな墓石です。

 

 

墓地入口には川窪家が、地域のために尽くされたことを感謝して、記念碑が建てられていました。

 

※ある大名家の分家さんに話を聞いたことがあります。

「私たちも田舎の菩提寺檀家になれば、戒名の位は院殿大居士になります。だから他の寺の檀家となりました。」と話していました。

本家はもちろん末裔の方々が、いつまでも裕福とは言えないのです。

 

河窪信俊 ウィキペディアlink          川窪(武田)新十郎信俊 戦国Xファイル link        

河窪信実 ウィキペディアlink

 

輪禅寺 埼玉県比企郡小川町上横田1215 地図link

 

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