2017年11月

花家孝之先生の「ブータン 1998」写真展 埼玉県日高市

友人の知り合いである医師・花家先生の写真展が、日高市の喫茶店にて開催されています。
1998年にブータンへ行ったときの作品です。

場所 埼玉県日高市楡木(にれぎ)169-1 地図
アートカフェ・ジョイナス ℡042-9585-8608   


当時は当然フィルムの時代でした。
デジタルにない、深みのある作品です。

 


川越方面からは、高麗の郷の先の信号を左折するとすぐです。

なかなか感じの良いお店でした。



まずは先生の作品を拝見いたしました。

 


珍しいブータンの写真でしたが、映っている人々を見ると、日本にどこにでもいるお顔です。

 



向かって右の少年が、ずっと付いてきたそうです。

 

 

 


日本ではないのに、何となく懐かしさを感じる作品でした。


先生を囲んで記念撮影となりました。
私以外の三人が優秀な頭脳の方ばかりですので、肩身の狭い思いが致しました。

 

 
 
私はこの後、用があり帰らせていただきました。
飲み物とケーキの支払いは、先生持ちとなってしまい、申し訳ない思いで帰りました。


お店の飲み物、ケーキ共、大変洗練した味でした。
あえて普段飲まないものを注文いたしましたが、大正解です。


先生から飯能地区医師会のカレンダーをいただきました。

 
 
十三枚の写真が使われており、地元の知った先生方ばかりが写した作品でした。
私が通っているクリニックの先生もあります。
 
ここの花家クリニックは、次女が生まれた場所です。

 

 

 

先生ご夫妻には大変お世話になったことを思い出します。

摩利支天神社 日高市久保

彼岸花で有名な巾着田(きんちゃくだ)からは近くです。秋の彼岸花の季節は車では行けません。大渋滞ですので、駅から歩いて行くのがベストでしょう。

 

横手人形の看板の所を北に向かい、途中右に行くと横手人形の先に摩利支天神社があります。

ここを目指していくのが、一番分かりやすそうです。

カーナビでは、違う所に行きそうになりました。

ここでひな人形などを買った人が何件か近在にもいました。知る限り小さなセットが今の世帯では多いようです。

 

横手人形日高本店  埼玉県日高市久保51 地図

 
 
 少し先が神社入り口なのですが、神社入口そばの倉庫の駐車場に勝手に止めさせていただきました。

申し訳ありません。

 
 
 このあたりは、横手姓が多いようです。

 

中は地域の公園にもなっていました。

 
 
 
 

近在の人が守っているのでしょう。境内もお社もきれいでした。

 

摩利支天神社  埼玉県日高市久保48  地図

黄葉の上野国分寺跡 高崎市引間

昨年行ったときは、まだ発掘をしていました。上野国分寺跡Wikipedia
その結果、金堂跡と言われていた所は、講堂だったようです。
すぐ東側の国分尼寺跡も発掘が終わり、埋め戻されているそうです。

 

七重の塔基壇の前のイチョウが色づいていました。
ギンナンも沢山落ちています。



基壇の上でも記念撮影。

 
※一週間前の画像です。
 
講堂跡の基壇。この前から金堂跡が発掘されました。

 

 



すぐ南側の上野国分寺跡のガイダンス施設(上野国分寺館)に向かいました。



七重の塔の模型や発掘された瓦など、貴重な物が展示されています。
写真は撮っても良いのですが、以前公開することは出来ないと言われましたので、掲載いたしません。

四戸遺跡の奈良三彩の記事が張ってありました。


この施設にも他の奈良三彩の土器破片が展示されています。


上野国分寺を知る上で、ここでのビデオは必見です。


   
※上野国分寺まつり

この次に近くの山上碑の碑文にある前橋市放光寺跡(山王廃寺跡)と総社神社も寄る予定でした。
来春、ユネスコ世界記憶遺産に選ばれた「上野三碑」巡りに併せて行きたいと思っています。

天台宗 三鈷山妙見寺(旧七星山息災寺) 高崎市

かつては三鈷山息災寺といわれ、平将門の伝承にもある関東における妙見信仰の大元でもあります。
ここから妙見信仰は秩父、千葉に広がっていきます。妙見寺   妙見信仰  

妙見寺 群馬県高崎市引間町213 地図
 


妙見菩薩を祀る妙見社



御本堂の本尊は釈迦如来。

 
境内は桜が多いので、満開の頃訪れるのが良いと思います。
 
石祠の中の仏様。
 

 

ここに行くと必ず寄るのが、妙見茶屋本店です。妙見寺の南側にあります。支店が五店舗あるそうです。
商品はここの裏で作られています。
いつも求めるのは酒まんじゅう。美味しいですよ。


後から入ってきた人は、みたらし団子を注文していました。
こちらもお薦めです。

店舗の脇は、感じの良い庭があります。風情がありますね。

 
妙見茶屋本店  群馬県高崎市引間町159−1  地図

 

銀杏の黄葉

境内の銀杏が黄葉しています。

 

数日前の写真ですので、向かって右側は、今かなり落ちています。

 

日に日に寒くなりますので、お墓参りは暖かい時間にお越しください。

メジロ

朝、メジロの鳴き声が聞こえました。椿の蜜を吸っているようです。
急いでカメラを用意しました。250ミリまでのズームレンズですから、全てトリミングです。


何羽もいるのですが、動きが速くホンの一時しか止まっていませんので、シャッターチャンスがありません。



タブノキにも来ていますが、何か食べるものがあるのでしょうか。


まともな画像もなく、ピント外ればかりでした。
他の鳥の集団の声を聞き、あっと言う間にいなくなりました。

何枚か撮れただけでも良かったと思います。私のカメラではマッタク撮れないことの方が多いのです。

 

ペット総回向法要 ペット供養塔前

毎年この時期は良い天気に恵まれる率が多く、今回は特に絶好のペット供養日寄りでした。
いままでで一番参列者の多い法要となりました。
納骨した檀家さん以上に、何倍も他のペット納骨家族が参加しています。

当日の供養は一切無料です。気軽にお参りしていただき、お寺に興味を持っていただくことも目的です。檀家さんのための施設のつもりが、他の方々の申し込みが圧倒的多数となっています。


少しお話をさせていただいてからお経となります。
今回の話は「四苦八苦」です。
そのうちの愛別離苦(あいべつりく)は「愛する人と別れる苦しみ」なのですが、「今では愛するペットと別れ別れになる苦しみも多くある時代(ペットロス)」と話すと、うなずく人が何人もいました。なにしろペットは家族ですからね。

難しそうな話と思われるでしょうが、かなり柔らかく話したつもりです。笑いも漏れていました。

前もって注文していたお花以外に参列者がお持ちした花は、その倍以上ありました。

 

まず初めての方のためにお線香の手向け方をお教えします。この供養塔では、お線香を一束、紙も取らずに火を着けている方が何人もいます。霊園などでも多く見ますね。


お線香を五本ぐらいづつ手向けていただく間、般若心経とご真言をお唱えするのですが、今までで一番多くお唱えしました。

イメージ 3


この後、阿弥陀堂、ご本堂にも希望する方は、お参りしていただきました。

 
写真では少数ですが、この5倍ほどの方が本堂に上がって、お焼香していました。
 
今回はかつてベビーカーに乗っていたお嬢ちゃんが、今ではもっと大きなお子さんと参列していました。
歳をとるのも無理ないな~と感じた日でもあります。
 
今回も石屋さん、葬儀屋さんの協力を得ることが出来ました。
かつては自分だけでも出来ると思ったのですが、車で来られる方が多く、駐車場も二重に止めていただかなくてはなりません。お線香も今では一人でお渡しするのも不可能と思える人数になりました。
雨であれば、テントも必要になります。
 
無事終わり、ホッとしました。
 
ペット供養塔 link
 

すみだ北斎美術館 墨田区亀沢

都内に用があり、その前に「すみだ北斎美術館」に行ってきました。
建物は周りの風景に溶け込んだデザインとして設計されたと書かれていましたが、北斎の作品とその時代に合った方が良かったのではと思います。

 
 
 
特別展として「妹島和世  SANAA  ×  北斎」がありました。
この建物がデザインされて、完成されるまでのプロセスが分かります。
 
 
 
さて、北斎美術館常設展を見学です。
後からフランス人の団体が入ってきました。北斎の研究者らしいフランス人が引率しています。
西洋の美術家に影響を与えた北斎でしたので、特にモネ、ドガ、セザンヌ、ゴーガンなどのいたフランスでは、今も人気があるのでしょう。
 
 
 
常設展は写真不可でしたので、「すみだ北斎美術館」のホームページを参照してください。
北斎の作品の展示だけでなく、それらの作品を解説する多くのタッチパネルが充実していました。
放蕩な孫に困っていたなど、いろいろな逸話もしることが出来ました。
 
ミュージアムショップでは北斎漫画の本を買いました。
 
 
ここからもスカイツリーがよく見えます。
 
 
 
両国駅東口に向かう途中の江戸東京博物館北側の道は、緑が多く寒桜も咲いていました。
 
 
徳川家康の亀踏像


江戸東京博物館は当分休館となります。

 

 

両国駅の東口構内ではステーションギャラリーがあります。
両国駅の成り立ちがパネルで説明されてあります。
貴重な古い写真が沢山あり、時間があればユックリしていきたい場所でした。

 

 

東文研 第51回オープンレクチャー 「四条河原遊楽図屏風」「穢土としての身体」

国立博物館の北西角にある東京文化財研究所のオープンレクチャーに行ってきました。
11月2、3の二日間ですが、2日(木)のみの参加です。東文研link


①海を渡った日本絵画 ―ライプツィヒ民族学博物館所蔵「四条河原遊楽図屏風」
  江村 知子 先生

日本にある他の三点の比較でした。
四点ともよく似た構図でしたが、よく見ると細かい部分でそれぞれ異なる部分があり、特に着ている着物の文様が全て異なっていました。
どれが大元となったのか、あるいは他の作品を模した物か、興味ある内容でした。
さらに江戸時代に禁じられる以前の女歌舞伎、女の語る人形浄瑠璃、若衆による能などが、どのように演じられていたのか、とても興味ある内容でした。

②穢土としての身体 ―日本中世絵画に描かれた病と死体
   山本 聡美 先生

差別表現があるかもしれません。ご了解下さい。

 「病草紙(やまいのそうし)」   Wikipedia link
肥満の女、二形(ふたなり・両性器を持つ)の男など、奇形、不具を含む病が描かれています。なお、二形はあり得ないそうです。
何かの印刷物で見たことがあるのは、肥満の女だけだったと思います。

仏教における因果応報が説かれています。
法華経(比喩品)にこの経をそしると病となる。罪の報いであると書かれてあるようです。他にもあるのでしょう。
これはおかしな話です。
その人を見て笑っている人も描かれています。しかし、笑っている人も、笑いながらも不安を感じているのでしょうと話されていました。

今でも自分の信仰が正しく、他は皆地獄に落ちる、病気になったのは信仰が悪い、天国、極楽に行けるのは自分たちの宗教だけだと言う人がいます。
お釈迦様は、そんなことは一言も言っていません。
人として、如何に良き人として生きるかだと思います。

「正法念処経」
病草紙の文は正法念処経を多く引用しているようです。病草紙とともに六道絵の元となっているそうです。

「九相図鑑」 九相図 Wikipedia 
死から腐って骨となるまでを描いた図です。九相図とは本物の死体の代わりに用いられた図です。
「九相図画像」で検索すると沢山出てきます。ハッキリ言って、この図は不気味です。無理してクリックしないで下さい。(※まれに精神が不安定になる人がいると書かいている方もいます) link

このような図を観相することにより、自他の肉体への執着を滅却するのだそうです。さらにそこから仏の世界(浄土)を欣求することだと思います。
特に天台宗に大きな影響を与えたようです。
源信の「往生要集」に九相観を採用し、肉体の不浄を説いています。

シルクロードの国々で用いられたことが明らかになっているようです。そこから唐に渡り、日本にも将来されました。

空海の性霊集(しょうりょうしゅう)に「九相詩」があり、お大師様が受容したとありました。しかしこの詩は偽作だそうです。
真言宗の住職としては、偽作で良かったと思いました。弘法大師の世界観とは、全く異なった世界だからです。

興味のある方は先生の「九相図をよむ 朽ちていく死体の美術史(角川選書・芸術選奨受賞)」を読まれると良いでしょう。
キリスト教の教会にも死の造形があるようです。
ここに掲載されている図も、かなりグロテスクです。

イメージ 2


両先生共に大学の同級生であり、大学院でも一緒だったそうです。
関係ないことですが、お二人ともとても美人でした。

菅原道真公の生涯

菅原道真公

※この文は、「滝行の会」スタッフのN女子のご協力を得ました。

学者出身の優れた政治家

菅原道真は大学で歴史や詩文を教える文書博士(もんじょはかせ)を代々歴任する学問の名家に生まれた。道真は幼少の頃から非凡な才能を開花させ、やがて文書博士に就任する。

勢いを増す藤原氏の勢力を押さえたい宇多(うだ)天皇に以降を託された道真は、天皇のブレーンとして政治改革に邁進する。学者の家系として異例の右大臣まで登りつめた。

藤原氏の讒言による失脚

ところが、脅威と見た藤原時平の讒言により、道真は九州の大宰府の長官に左遷されてしまう。黙って受け入れた道真は、旅立つ朝自宅の梅の花に「東風(こち)吹かば、にほいおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」(春になって東風が吹いたなら、太宰府にいる私のところへ梅の花の香りを届けておくれ。私がいなくても春をわすれてはいけないよ) と語りかけたと伝えられる。

太宰に就いて二年ののち、道真は死去する。

死後三十年恐れられた道真の祟り

道真が去った後、都では天変地異が続く。激しい雷雨、飢餓、、疫病の流行で多くの死者を出した。さらに、藤原時平を始めとして左遷に関わった人々が次々と病に倒れ死去する。

また、内裏に激しい落雷があり、左遷に関わった藤原氏ゆかりの人々が、顔面や腹部の焼けただれた姿で発見されたことにより、人々は「道真の祟りだ」と恐れた。天災への恐れと相まって、道真の死後、約三十年にわたって「道真の祟り」が人々の口に上り続けた。

怒りを鎮めるために神に祀る

朝廷は道真の怒りを鎮めようと、京都北野の地にある北野社に道真を神として祀る(北野天満自在天神宮)。道真の祟りを恐れた藤原氏により、手厚く祀られることとなった。

天神として祀られた道真は荒ぶる祟りの神の姿から、罪をそそいで恵みをもたらす慈悲の神に姿を変え、人々の信仰を集める。さらに道真のがくさいにあやかって学問の神として信仰は広がっていった。

平安中期より現代に至るまで、学問の神様として人々の信仰を集めている。

 

天神社

〒357-0014

埼玉県飯能市平松376   円泉寺境内  

携帯090-3225-6286 西澤

普段は神社におりません。ご用の方は、前もってお電話下さい。

平松天神社 link

 

 

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