2020年06月

真言宗智山派 医王寺 埼玉県越生町

医王寺は円泉寺と同じ真言宗智山派に属しています。

越生町のホームページによると

「室町時代の応永19年(1412)、法恩寺第二世の曇秀を開山とする法恩寺の末寺です。寺に伝わる貴重な歴史資料として、天正18年(1590)、秀吉の小田原攻めの際、前田利家が軍勢の乱暴狼藉を禁じた禁制状が保存されています。また、薬師堂本尊、木造薬師如来坐像は越生に残る平安彫刻のひとつです。」

とあります。

法恩寺と同格の時代もあり、応永年間には十八ヶ寺の末寺がありました。

 

 

かなり大きな御本堂でした。

 

 

御本尊は平安末期から鎌倉時代の薬師如来とありましたが、下の画像の御堂が薬師堂のようです。

 

 

御堂の彫刻は、格式を誇る寺院らしく、見事な彫刻が施されていました。

 

 

鐘楼堂

 

ご住職夫人がおりましたので、虚空蔵尊のことを聞くと、「 祭礼の時は住職が儀式を執り行いますが、虚空蔵様は村持ちです」と話されました。

兼務寺とか医王寺持ちと書かれていることもありましたが、親切に教えていただき感謝しています。

 

医王寺 埼玉県入間郡越生町大字上野2043 地図

 

←虚空蔵尊 埼玉県越生町               嘉元の板碑

三満山 虚空蔵尊 埼玉県越生町

昭和48年(1973)に虚空蔵堂の万蔵寺(廃寺)天井裏から小判や古銭が109枚発見されました。

そのため福の神としての名声を高めたようです。

私も新聞で読んだ記憶がありました。ここだったとは思ってもいませんでした。

 

毎年3月にだるま市が開かれ、多くの参拝者で賑わいます。

 

 

参道東側の赤い屋根の寺が、廃寺となった万蔵寺と思います。

全国の寺院は無住や廃寺が増えています。特に祈願寺を維持するには、厳しい時代となっています。

 

 

ここから桂木観音方面には車では行けません。通行止めになっていました。

あくまでもハイキングコースとして、地元の方の道です。

 

 

この後に近くの医王寺にも参拝しましたが、たまたま住職夫人がおり、「 祭礼の時は住職が儀式を執り行いますが、虚空蔵様は村持ちです」と話されていました。

兼務の寺や医王寺持ちではないそうです。

 

 

朝方まで降っていた雨のため、落ち葉のある階段を注意して登りました。

手すりがあって助かります。

 

 

虚空蔵堂に到着しましたが、息切れをしてしまいました。運動不足です。

 

今から数十年前に越生町、毛呂山町の何ヶ寺かが放火にあいました。ここも被害に遭い、立派なと彫刻のある御堂が焼けてしまいました。

酷いことをする悪党は、日本各地にいます。恐ろしいことです。

 

高い場所での資材の搬送、工事など、どのように行ったのか興味があります。工事用道路があるのか確認を忘れました。

今日は誰もいませんが、祭礼のブログなどを読むと、多くの人に愛されていると思いました。

 

 

毎年3月の祭礼は、だるま市で知られています。多くの参拝者で賑わいます。

中を覗くと虚空蔵菩薩の三満山星光院とあるお姿がありました。

私はうさぎ年ですが、旧暦で言えば寅年です。健康を祈願して般若心経などをお唱え致しました。

 

 

各地(特に関西)の虚空蔵菩薩をお祀りしている寺院では、十三詣りが昔から知られています。数えで十三歳になったおりに、知恵と健康を授けていただくよう、お参りする行事があります。

下の画像石仏は子授けの虚空蔵菩薩です。

知恵とと福徳を授ける仏さまとして知られ、入学成就・学業成就祈願で多くの参拝者が詣でる寺院もあります。

私は、これ以上ボケないようにと、お願い致しました。

 

 

階段を登り切った場所に狛牛、狛虎の石像が祀られています。

 

 

虚空蔵菩薩の生まれ年本尊が、丑年・寅年にちなみ祀られています。

 

狛牛

 

狛虎

 

以前はこのくらいの階段は怖くありませんでしたが、ぬれていましたので慎重におりました。

 

 

この後、近くの医王寺に向かいました。

 

三満山 虚空蔵尊 埼玉県入間郡越生町大字上野2261 地図

 

円泉寺と七観音石塔 埼玉県越生町               真言宗智山派 医王寺 埼玉県越生町

 

円泉寺と七観音石仏 埼玉県越生町

私が住職を務める寺と同じ寺院名であり、宗派も同じ真言宗智山派に属しています。

東松山市の御住職が兼務しています。

 

 

新編武蔵野風土記によれは、御本尊は薬師如来とあります。

 

参道入口には立派な板碑が祀られていました。右側には地蔵菩薩です。

板碑は残念ながら上部の梵字部分が割れており、文字も風化しています。

 

 

寺の東側の道を北に向かうと、七観音と馬頭観音の石仏がありました。

 

 

一番上が千手観、右に聖観音・十一面観音・馬頭観音、左に如意輪観音・不空羂索観音・准胝観音だそうです。

文化11年(1814)に鹿下村の観音講によって作られました。

もともとは白根橋のたもとにあったそうです。円泉寺に祀られたわけではありませんでした。

 

七観音石仏

 

寺の裏側から、ここに来る小道があるようでしたので、てっきり寺の石仏と思っていました。

 

 

円泉寺 埼玉県越生町鹿下60  地図

 

←法恩寺 渋沢平九郎の埋首の碑 埼玉県越生町          虚空蔵尊 埼玉県越生町  

法恩寺 渋沢平九郎の埋首の碑 埼玉県越生町

法恩寺は天平10年(738)に行基菩薩によって開かれた寺として知られています。

江戸時代は真義真言宗関東十一檀林の寺で、多くの僧侶を養成していました。現在でも多くの末寺を持つ真言宗智山派の本寺です。兼務する寺院も多くあります。

ここも越生七福神の札所で、恵比須さまを祀っています。

 

渋沢平九郎の墓の三回目です。

自決の地リンク          全洞院墓

 

場所は「越生駅」西側から、すぐの場所にあります。

 

 

多くの宝物が残されており、重要文化財などに指定されています。

同じ宗派ですが、私が住職をする寺とは、歴史も規模も大違いです。

 

 

渋沢平九郎埋首の碑は、墓地に向かう階段の途中にあります。

 

 

 

明治7年(1874)、法恩寺の渋沢平九郎お骨は、場所が分からないようです。谷中の渋沢栄一家の墓に移されましたと書いてあるサイトもありましたが、事実ではなさそうです。

渋沢栄一家墓地にある平九郎の碑は、深谷市の渋沢家中の家に移されました。

渋沢栄一家 谷中墓地 地図

法恩寺の碑は、昭和39年に建立されました。

 

境内は広く、また整備されています。

 

 

法恩寺 ホームページlink

法恩寺 埼玉県入間郡越生町大字越生704  地図

 

 

←渋沢平九郎の墓 全洞院 埼玉県越生町          円泉寺と七観音石塔 埼玉県越生町

 

渋沢平九郎の墓 曹洞宗 全洞院 埼玉県越生町

自刃した渋沢平九郎の墓が全洞院にあります。

渋沢平九郎自決の地の続きです。

 

 

全洞院の道を挟んで反対側に熊野神社があります。広い駐車場がありますので、ここに駐めました。

以前に熊野神社に詣でた折りのブログです。リンク

 

 

熊野神社には、ハイキングや写真撮影の人を見ましたが、全洞院まで行く人は私を入れて3人だけでした。平九郎の墓まで行ったのは私だけです。

それでも以前神社に来たときは、私一人でした。

新型コロナウイルス流行のため、意識して人の少ない場所を選んでいるのかも知れません。私と同じです。

 

 

渋沢平九郎の墓があるのは知りませんでした。自決の地は20年ほど前に行ったことがあります。

 

 

墓は一番上の奥でした。

 

渋沢平九郎墓

 

明治7年(1874)、渋沢平九郎のお骨は、谷中の渋沢栄一家の墓に移されました。渋沢栄一家 谷中墓地 地図

その後に、この墓石が建立されています。

※注 お骨は全洞院から移されていないとの説もあります。

 

 

明治32年・45年に渋沢栄一は、墓参りに訪れています。

 

全洞院は越生七福神の札所になっていますが、御朱印は龍穏寺で受け付けています。

 

 

全洞院  埼玉県入間郡越生町大字黒山734 地図

 

追記 渋沢栄一家の墓にあった渋沢平九郎追懐碑は、深谷市の旧渋沢邸中の家(なかんち)敷地に移されています。

旧渋沢家「中の家」ブログlink

 

 

 

中の家敷地北東にあります。深谷市血洗島247-1 地図link

 

←渋沢平九郎自決の地 埼玉県越生町               法恩寺 渋沢平九郎の埋首の碑 埼玉県越生町

 

渋沢平九郎自決の地 埼玉県越生町

渋沢平九郎を知らない人が、ほとんどだと思います。富岡製糸場の初代工場長だった尾高惇忠の弟、日本資本主義の父と言われた渋沢栄一の見立養子でした。

飯能戦争で自決した地、越生町の墓を二ヶ所を廻りました。お墓は改めて二回に分けます。

     渋沢平九郎wikipedia リンク

 

 

明治元年、鳥羽、伏見の戦の後に彰義隊が結成されましたが、袂を分けて振武軍を結成し、平九郎は右軍頭取となっています。彰義隊wikipedia リンク

 

慶応4年(1868)2月18日に振武軍は、新政府側と戦い続けることにしました。

翌19日に彰義隊の敗残兵とともに一橋領が17ヶ村ある飯能を選び、寺院に宿営しました。

本陣は能仁寺に置きましたが、圧倒的な火力、兵力のために、わずか一日で敗走しました。振武軍最期の地となったわけです。

 

 

逃げた渋沢平九郎は、顏振峠にある茶屋で休息しています。

現在は平九郎茶屋となっており、ここに行きましたら女主人より話を聞くことができます。ただし、ここの美味しいうどんを食べながらにして下さい。

 

この後、黒山村(越生町)に至って、新政府軍に見つかりましたが、どうにか振り払うことができました。

しかし、銃撃により負傷し、ここで自刃したのです。

遺体は近くの全洞院に葬られました。首梟は法恩寺の前にさらしものにされましたが、法恩寺に埋葬されました。

明治7年(1874)に渋沢栄一により、遺骨を谷中の渋沢家墓地に葬ったそうです。いずれ渋沢家墓地にも、お参りしたいと思います。渋沢栄一家の墓 地図

 

平九郎ぐみ

 

バスの止まっている場所は、駐車禁止です。

このすぐ手前が自決の地です。

 

平成15年(2003)4月に来たときの写真です。

 

平九郎茶屋に行ったのは、二年前でしたので、状況が変わっているかも知れません。

埼玉県飯能市大字長沢1562 地図

 

平九郎茶屋の後に、黒山の自決の地に向かったのですが、土砂崩れのため通行止めになっていました。

現在の状況は不明です。

このあたりは、ときがわ町、越生町、毛呂山町に接しています。西に向かえば秩父に行くことができます。

 

追記 2020/12/23

「歌劇幕臣・渋沢平九郎」が、深谷市民文化会館で2021年2月6日に上演されます。

 

渋沢平九郎自刃の地  埼玉県入間郡越生町大字黒山 地図

 

←観音寺の板碑 埼玉県吉見町             渋沢平九郎の墓 全洞院 埼玉県越生町

 

真言宗智山派 観音寺の板碑 埼玉県吉見町

毘沙門堂から約500メートル西にある観音寺に向かいました。

観音寺は円泉寺と同じ、真言宗智山派に属しています。

 

 

駐車場に車を止めて本堂に向かうと、御住職が庭掃除をしていました。

以前何度かお目にかかった方です。

私が若造の頃ですので、覚えてはいなかったようですが、父や弟には時折会っていたようで、私のことも少しは思い出していただけたようです。

父とは旅行仲間だったそうです。

 

 

こちらにも立派な宝篋印塔がありました。

 

 

薬師堂の右隣に、板碑が集められていました。

板碑のことを聞くと、字の読める中で一番古いのが、左から二番目と教えていただきました。

 

 

左から二番目は貞永二(1233)年の阿弥陀三尊板碑です。

文字が傾いていますので、元々は右側に観音菩薩の梵字が彫られていたはずです。

 

 

阿弥陀一尊図像板碑は文明元(1469)年の銘があります。

 

 

他にも年号が読める板碑もあるようですが、私には近づいてみても読める板碑はありません。

 

駐車場に戻り、観音堂や墓地入口の石仏に向かいました。

 

 

青面金剛、地蔵菩薩などが一列に並んでいます。

 

 

お墓には新しい永代供養塔が建てられていました。

どこの寺院も、今では必要な施設となっています。

 

観音寺 埼玉県比企郡吉見町大字大串1282 地図

 

←金蔵院毘沙門堂 埼玉県吉見町                渋沢平九郎自決の地 埼玉県越生町

 

本山修験宗 金蔵院毘沙門堂と大串次郎重親の墓 埼玉県吉見町

平安後期から鎌倉初期に大串次郎重親が創建したと伝えられ、開創時は七堂伽藍の備わった大寺であったと伝えられています。

大串次郎重親wikipedia リンク

天文年間に兵火により焼かれてしまいました。後に毘沙門堂だけが再建されています。

毎年、2月13日に祭礼があり、多くの方がお参りに来られます。だるま市と知られているそうです。

 

 

宝篋印塔が二基あり、大串次郎重親の墓と伝えられる宝篋印塔は50メートルほど離れた場所にあります。

まずは応安6(1373)年の宝篋印塔です。

 

 

 

宝篋印塔の脇には小さな板碑が集められています。

 

 

参道の中門は仁王様が祀られていました。

 

 

今でこそ住職の住まない小さな寺ですが、古は歴史のある大寺であったことが、残された建物・宝篋印塔や近在の小字によって知る事ができます。

 

 

御堂から約50メートル離れた場所に大串次郎重親の墓と伝えられる宝篋印塔があります。

 

 

平成11年に行われた工事の時、宝篋印塔の下から壺が二つ出土しました。

中には男性と思われるお骨が納められていました。

壺は吉見町埋蔵文化センターで保管され、お骨は別の容器に収められ、宝篋印塔の下に納められています。

 

 

宝篋印塔が建立された年号と、大串次郎重親の亡くなった年は、約150年の開きがありますが、宝篋印塔建立後に納めた可能性もあるようです。

 

金蔵院毘沙門堂は宗旨が違いますが、近くの真言宗智山派観音寺が管理しています。

次に観音寺に向かいました。

 

毘沙門堂 埼玉県比企郡吉見町大串2244  地図

 

←菅原神社 埼玉県東松山市                  観音寺の板碑 埼玉県吉見町

 

菅原神社 埼玉県東松山市

東松山市の松山町は知っていましたが、大字松山は初めて知りました。

407号線のバイパスに面しています。

 

 

以前は杉の木に囲まれていたようですが、伐採されて丸太となっていました。他の木も同じように切られていました。

祭神は菅原道真公です。普通は天神社とか天満宮と言われていることが多いはずです。

 

 

本殿前に狛牛が祀られています。

天神さまが祀られている神社には、なで牛が祀られているところも多くあります。

 

 

いかにも牛ではなく、味わいのある狛牛です。

 

 

神社の東側駐車場には、お地蔵様が祀られていました。

 

 

菅原神社 東松山市松山1150 地図

 

←福正寺 勢至堂と阿弥陀如来板碑 埼玉県滑川町                 毘沙門堂 埼玉県吉見

 

天台宗 福正寺 勢至堂と阿弥陀如来板碑 埼玉県滑川町

嵐山町は関越道や森林公園脇を抜ける道を使用することが多いのですが、いつも月輪地区は通り過ぎる位置にあります。

東上線の「つきのわ駅」が平成14年に開業して、駅近辺は人口が増えているようです。

 

 

山門を抜けると庚申、地蔵菩薩、如意輪観音などの石仏が迎えてくれます。

 

 

この前をまっすぐ行けば、御本堂になります。

 

 

今回の目的である勢至堂と狛兎です。

御堂の御本尊は勢至菩薩ですが、単独で祀られている場所はあまりないと思います。

 

 

勢至菩薩は午年の守り本尊ですので、ウサギが狛犬とは面白いですね。

須弥壇の四方に卯の彫刻が、施されているのだそうです。

 

 

平成17年建立の狛ウサギです。

勢至堂屋根塗り替え記念に奉納されました。狛ウサギでなく福うさぎと彫られています。

 

 

春は桜の頃が見頃のようです。いまは紫陽花が満開でした。

 

 

勢至堂の西側墓地入口には、大きな板碑がありました。約3、5メートルほどあると思います。

阿弥陀一尊と御真言が彫られています。

 

左側の板碑は梵字の阿弥陀三尊と一尊でした。

 

 

大黒天の文字石塔も祀られています。

 

 

福正寺 埼玉県比企郡滑川町大字月輪454 地図

 

←大塚八幡神社 埼玉県小川町                 菅原神社 埼玉県東松山市→

 

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