2006年06月

早尾神社 鎮宅霊符神石碑 北辰霊符神石碑 群馬県渋川市

早尾神社には妙見菩薩関連の霊符神石碑が祀られています。

拝殿

 

本殿は昭和45年に市指定重要文化財に指定されています。

ガラス越しの撮影でしたが、見事な彫刻が施されているのがわかります。

 

随分と末社が祀られていますね。

 

鎮宅霊符神は北を向いて建てられています。
他にも北辰尊石祠があったようですが、気がつきませんでした。

鎮宅霊符神石碑

北辰霊符尊神石碑

慶応元(1865)年六月

明治三十年三月

大黒天の石仏は、良い彫りでした。色々な石仏、石祠、石塔が祀られています

 

早尾神社  群馬県渋川市半田1439 地図

八幡宮と金刀比羅宮 群馬県渋川市

八幡宮

境内末社に星宮神社が祀られているようです。

神社の北側から降りる道があり、そこから境内に駐めさせていただきました。

先ずは正面に向かいます。

 

南側には池があり、自治会の駐車場がありました。

 

元気な狛犬が守っています。

 

神楽殿は新しくなったばかりでした。

 

毎年4月に太々神楽が行われます。

 

末社の中に星宮神社(祭神・天御中主神)があるのだと思いますが、ほとんど文字が彫られていませんでした。

 

八幡宮 群馬県渋川市北橘町下南室111 地図

 

金比羅宮

八幡宮の道を挟んで北側・十二山には、金刀比羅宮があります。

 

四国の金比羅山のように、山に祀られています。

けっこうな坂でした。百段以上あったと思います。

金刀比羅宮

 

文政5年の石祠がありました。

 

金比羅宮 群馬県渋川市北橘町下南室346−1 地図

 

上三原田神社(八幡宮) 沼田市赤城町

上三原田歌舞伎舞台を見学して、八幡宮を参拝しました。この近辺には八幡宮が沢山あります。

この神社の由来などは書かれていませんでした。

 

一の鳥居には「八幡大神」、二の鳥居には「八幡宮」と額にありました。

境内には、石祠や石仏が集められていました。

すぐ側のキャベツ畑です。

 

上三原田八幡宮 群馬県渋川市赤城町上三原田217 地図

上三原田歌舞伎舞台 渋川市赤城町

上三原田を通ると上三原田歌舞伎舞台の案内が見えました。

車を駐めて建物の見学です。

 

掲示板を見るまで、これほどの規模の歌舞伎とは思いませんでした。

 

広場は露天でしたが、当日は丸太を組んで観客席を設定するようです。

 

ここが満席になるのですから、歌舞伎を維持する方々の熱意二は、頭が下がります。

 

上三原田歌舞伎舞台  群馬県渋川市赤城町上三原田269 地図            渋川市ホームページlink

溝呂木構造改善センター入口の石仏 渋川市赤城町

赤城町の溝呂木交差点手前に石仏が並んでいました。

すぐに左折して、溝呂木構造改善センター近くに車を駐車し、石仏を撮影です。

沼田街道の溝呂木宿があったところです。

 

沢山の石仏が集められていました。

青面金剛

 

 

三面馬頭観音でしょうか。

 

真ん中は奪衣婆?

これだけまとめて石仏が見られるのは、そうはありません。

 

地図

上久屋神社 群馬県沼田市

沼田市の上久屋神社(かみくやじんじゃ)を参拝しました。祭神は日本武尊、建御名方命、大山祗命などです。

明治41年に日枝神社に武尊神社、十二山神社を合祀 し、上久屋神社となりました。

 

拝殿は初めて見る形をしていました。このまま通り抜ければ長屋門のようです。

 

境内には庚申様や末社の石祠などが祀られていました。

 

真ん中の双体道祖神は、男神が女神の足を踏んでいます。

 

上久屋神社  群馬県沼田市上久屋町1375 地図

 

天台宗 薬王寺 茨城県八千代町

埼玉県内の霊園でお会いした天台宗の僧侶が、薬王寺住職でした。

話をしてみると宗旨は異なりますが、同じ大学の同窓でした。

 

 

私が調べている妙見菩薩と平将門に関することを教えてもらうつもりが、近辺を案内してくれることになりました。それらの場所は、他のブログに掲載致します。

本堂を建設中です。

 

 

たぶん地蔵堂だと思います。色々な石仏などが祀られています。

 

 

住職の祖母は相馬姓で、平将門の子孫と話していました。近くの浄土真宗弘徳寺の出身です。

そのために反将門公側の藤原秀郷関連の場所・佐野厄除け大師や唐澤山神社には、行っても手を合わせるなと言われて育ったそうです。

東京の神田明神の氏子が、成田山新勝寺に行くなと言うのと同じです。

 

私は平将門関連の寺院住職ですが、同じ真言宗智山派に属していますので、何度か参拝しています。

成田山の友人や後輩もおり、付き合うなと言われても無理な立場です。

 

浄土真宗 弘徳寺 地図

 

薬王寺  地図

 

妙亀塚と木母寺(天台宗)梅若塚 日本お伽噺梅若塚

妙亀塚

梅若伝説で知られる梅若の母・妙亀(花御前)の墓です。この地は浅茅ヶ原とよばれていました。

人さらいにさらわれた梅若を探しに来た花御前が、梅若の死を知り髪を下ろし、妙亀を名乗って供養をしていましたが、隅田川に身を投げたそうです。

能の「隅田川」(観世十郎元雅作)で知られる伝説で、江戸時代になると歌舞伎・浄瑠璃でも演じられるようになりました。

関東大震災で現在は板橋区に移りましたが、妙亀の草庵が総泉寺になったと伝えられています。草庵は妙亀堂と言われていたかも知れません。

妙亀塚はここに残されました。

 

 

古墳の上に造られたようです。

 

祀られている板碑は弘安十一年とあるようです。妙亀との関連が分からないようです。

台東区で一番古い板碑ですが、梵字が隠れており私には読めません。五輪塔が彫られた板碑は初めて見ました、

 

 

妙亀塚    地図

 

日本お伽噺 梅若塚

珍しい本を見つけました。香雨山人述・稲垣蝸堂画の日本お伽噺です。

綱島島鮮堂書店で大正9年に刊行しています。

 

 

吉田惟房(これふさ)と妻の花子は、やっと恵まれた子に梅若丸と名付けました。

 

 

梅若丸は12歳になりました。

京の都から悪童から逃げだし、大津まで逃げてきましたが、人買いの信夫藤太(しのぶとうた)にだまされて、奥州に売られてしまう途中、病を得て亡くなりました。

お百姓達がお墓を作り、墓印に一本の柳の木を植えました。これが梅若塚です。

 

 

母花子は梅若丸が東国へ下ったことを聞き、向島まで行き着きました。

しかし、梅若丸の死を聞き、墓前で泣き伏してしまいました。

すぐに髪を下ろし妙亀尼となり、浅茅が原に庵を造り梅若丸を弔いながら月日を送りました。

 

悲しみに耐えられず、鏡ケ池に身を投げて亡くなりました。

今の浅草橋あたりだと申します。

 

隅田川梅柳新書 吉田梅若丸の内

歌川豊国(二代)による三枚組の一枚だけです。

 

 

 

木母寺の梅若塚

橋を渡り天台宗木母寺に向かいました。

かなり近代的な御本堂です。

 

木母寺とは梅若の梅を木と母に分けた寺院名です。母子の辛い別れを感じさせられます。

 

御本堂をお参りし、梅若塚の参拝を致しました。

妙亀塚のようになっているのかと思いましたが、石を積んだ梅若(梅若丸)の墓でした。

今は梅若公園になっている旧木母寺跡では、塚があったようです。

今の寺は昭和51年に移ってきています。

 

 

元梅若塚のあった梅若公園    地図

 

境内には都内で一番大きな碑があります。

※追記 2022/07/02 もう終わっていますが、駒ヶ根シルクミュージアムで、第56回特別展「天下の糸平と呼ばれた男、田中平八」がありました。駒ヶ根シルクミュージアムlink

田中平八は駒ヶ根の出身です。

 

天下乃糸平の碑  田中平八ウィキペディア

 

三遊塚は初代・三遊亭円生の追悼のため、明治22年(1889)に建立しました。

 

 

木母寺  地図            ホームページlink

神明宮 群馬県みどり市

最近まで勢多郡大間々町でした。

神明宮のすぐ北側が渡良瀬川です。

 

ある本に境内に天御中主神社があるとのことで行きましたが、天御中主は祀られていないと言われました。妙見社であったのかと思いましたが、明らかではありません。

小さな無名の石祠が無数にあります。この中にあるのかも知れません。妙見菩薩資料link

 

裏のはね瀧橋から渡良瀬川の絶景が見られます。

 

神明宮  群馬県みどり市大間々町大間々2245 地図

 

八幡宮 群馬県神流町万場

富岡方面から神流町に抜けてみようと思い、万場宿を目指しました。

特に目的がありませんでしたので、八幡神社の参拝です。

 

扁額は八幡宮でした。

 

三階建ての建物があるはずなのですが、見過ごしたのか気がつきませんでした。

 

三階建ての今井旅館ホームページlink

 

八幡神社 群馬県多野郡神流町大字万場  地図

 

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