妙亀塚
梅若伝説で知られる梅若の母・妙亀(花御前)の墓です。この地は浅茅ヶ原とよばれていました。
人さらいにさらわれた梅若を探しに来た花御前が、梅若の死を知り髪を下ろし、妙亀を名乗って供養をしていましたが、隅田川に身を投げたそうです。
能の「隅田川」(観世十郎元雅作)で知られる伝説で、江戸時代になると歌舞伎・浄瑠璃でも演じられるようになりました。
関東大震災で現在は板橋区に移りましたが、妙亀の草庵が総泉寺になったと伝えられています。草庵は妙亀堂と言われていたかも知れません。
妙亀塚はここに残されました。

古墳の上に造られたようです。

祀られている板碑は弘安十一年とあるようです。妙亀との関連が分からないようです。

台東区で一番古い板碑ですが、梵字が隠れており私には読めません。五輪塔が彫られた板碑は初めて見ました、

妙亀塚 東京都台東区橋場1丁目28−2 地図
日本お伽噺 梅若塚
珍しい本を見つけました。香雨山人述・稲垣蝸堂画の日本お伽噺です。
綱島島鮮堂書店で大正9年に刊行しています。


吉田惟房(これふさ)と妻の花子は、やっと恵まれた子に梅若丸と名付けました。

梅若丸は12歳になりました。
京の都から悪童から逃げだし、大津まで逃げてきましたが、人買いの信夫藤太(しのぶとうた)にだまされて、奥州に売られてしまう途中、病を得て亡くなりました。
お百姓達がお墓を作り、墓印に一本の柳の木を植えました。これが梅若塚です。

母花子は梅若丸が東国へ下ったことを聞き、向島まで行き着きました。
しかし、梅若丸の死を聞き、墓前で泣き伏してしまいました。
すぐに髪を下ろし妙亀尼となり、浅茅が原に庵を造り梅若丸を弔いながら月日を送りました。
悲しみに耐えられず、鏡ケ池に身を投げて亡くなりました。
今の浅草橋あたりだと申します。
隅田川梅柳新書 吉田梅若丸の内
歌川豊国(二代)による三枚組の一枚だけです。

木母寺の梅若塚
橋を渡り天台宗木母寺に向かいました。
かなり近代的な御本堂です。

木母寺とは梅若の梅を木と母に分けた寺院名です。母子の辛い別れを感じさせられます。
御本堂をお参りし、梅若塚の参拝を致しました。


妙亀塚のようになっているのかと思いましたが、石を積んだ梅若(梅若丸)の墓でした。
今は梅若公園になっている旧木母寺跡では、塚があったようです。
今の寺は昭和51年に移ってきています。



元梅若塚のあった梅若公園 東京都墨田区堤通2丁目6−11 地図
境内には都内で一番大きな碑があります。
※追記 2022/07/02 もう終わっていますが、駒ヶ根シルクミュージアムで、第56回特別展「天下の糸平と呼ばれた男、田中平八」がありました。駒ヶ根シルクミュージアムlink
田中平八は駒ヶ根の出身です。

天下乃糸平の碑 田中平八ウィキペディア
三遊塚は初代・三遊亭円生の追悼のため、明治22年(1889)に建立しました。

木母寺 東京都墨田区堤通2丁目16−1 地図 ホームページlink