2022年06月

西行立姿図 宗理(北斎)作 巧芸品 北斎の美術館 墓 など

西行立姿図

北斎が宗理を名乗っていた寛政7年(1795)から同9年の作品のです。

北斎と名乗る前の名前になります。

あくまでも巧芸品です。

 

 

脱俗の飄々とした西行に共感を覚えて描かれたようです。

 

 

名を30回、住まいを90回代えるなど、奇行に飛んだ一生でした。

子孫は現在までつづいています。 北斎の裔PDFリンク

 

長野県小布施町

北斎館・高井鴻山記念館・岩松院巡りをお勧めします。

 

北斎館

 

北斎館ブログlink

 

 

すみだ北斎美術館  東京都墨田区

美術館は斬新なデザインです。北斎生誕の地は園児達が立っている位置近くだったようです。

 

 

みすだ北斎美術館ブログlink

 

 

北斎の信仰した柳嶋妙見山法性寺

 

墨田区業平5丁目

 

 

北斎の墓

お墓は元浅草の誓教寺にあります。

 

 

戒名は南牕院奇誉北斎居士でした。

当時江戸において院号居士の戒名は、武士階級以外には付けられませんでしたので、武家であったようです。

 

北斎墓ブログlink

 

 

五智国分寺(天台宗)の古い御本尊・五智如来御影 新潟県上越市

 

今から25年以上前に宿泊をせず、五智国分寺などを一日で参拝する予定をたてました。

しかし出かけるのが遅くなり、どこに寄ったか忘れましたが、遅い昼(そば)を食べた記憶だけが残っています。上越市まで行かなかったことは間違いありません。

デジカメなどある時代ではありませんでしたので、記録が残っていません。

新潟は三度目でした。

 

たまたま胎蔵界五智如来の御影掛軸を手に入れました。小さな掛軸です。

胎蔵界大日如来を中心に釈迦如来、阿弥陀如来、宝勝如来、薬師如来が描かれています。

 

五智国分寺は越後国国分寺の後継寺院です。

江戸期と昭和63年に御本堂が焼けていますので、この掛軸の五仏と同じかは不明です。

 

もう遠方への旅行は気力がありません。

参拝出来なかった代わりに、この掛軸に手を合わせました。

 

五智国分寺  ウィキペディアlink

 

神武天皇画

八紘一宇と書かれていますので、戦前の神武天皇の絵であることに間違いありません。

かつては表装されていたのでしょうが、マクリのままです。

 

 

作者は柳子とありますが、詳細は不明です。

しかし、力のあった画家であることは間違いないと思います。

 

 

 

弓の上には、光り輝く金鵄(金色の鳶)が止まっています。

金鵄は日本書紀に書かれています。同じ場面でも古事記では、八咫烏となっています。

 

 

 

今の平和な日本が、何時までも続くことを願っています。

しかし世界の情勢を見るに、隣国やウクライナのことを思うと、不安が増すばかりです。

 

※この掛軸は、ある神職の方に譲りました。

 

 

尾形光琳筆 太公望図屏風色紙

1986年に国立博物館で開催された、昭和天皇御在位60年日本美術名宝展の太公望色紙です。

 

 

高校で習った太公望のことを思い出します。

後に周の文(ぶん)王となった西伯昌が呂尚(太公望)を見いだし、軍師に迎えました。

周の国の発展に寄与しています。

 

いろいろな逸話が残されていますが、この図は有名な釣り糸を垂れている図です。

 

 

墓じまい 引き墓

近頃は墓地の申込みが一気に減りました。

永代供養墓が多くの寺院に出来ましたので、永代供養申込みは僅かですが減っています。

 

更にコロナの流行のため、葬儀に対する考え方も大きく変化してきました。一日葬どころか火葬のみが増えています。

子供がいない、子供は娘ばかり、子供が結婚しなかったなど、引き墓・墓じまいを急ぐ家が増えています。

 

当寺の墓じまいです。

 

 

娘ばかりだけですので、お骨と土の一部は永代供養塔におさめています。

 

かつて某市の個人墓から当寺に引き墓がありました。

菩提寺が無い状態でしたので、私が拝みに出かけています。

 

 

この家は当寺に墓地を求めましたが、引き墓・墓じまい後は永代供養にする方が、ほとんどになっています。

 

遠方の某霊園です。

 

 

この家は他の霊園に移りました。

 

市内ではありますが、もう少しで秩父となります。

 

 

途中清水が湧いたり、雑草ばかりの道を数百メートルも歩くため、本格的な法衣は着ないで良いことになりました。

 

このように引き墓・墓じまいをする家は良いのですが、意識の違いか墓参りに行かないだけでなく、使用者が行方不明の家も当寺もふくめて各地で増えています。

以前行った山中の墓は、何件も放置されているのが明らかでした。倒れたり埋もれています。離れた場所にあるお寺は以前から廃寺となっているようそうです。

先祖捨て、親捨て、子供捨てです。

それならば3万円でお骨を遠方に送るのが良いかと言えば、これも親捨て・連れ添い捨てでしかありません。

 

たとえ実家が遠方で、自分の家には墓がなくとも、子供を墓参りに連れて行くことや、葬儀・御法事を経験さるべきだと思います。

父が亡くなり自分の家の墓が分からない長男がいました。伯父さん達が呆れていました。

 

 

もっと酷いのは、どこの寺が菩提寺であるか忘れてしまった跡取りもいます。

通夜に私が来ていないので親戚が聞くと、どこの寺だか分からないので、葬儀社に依頼したと話していたそうです。

他宗旨の僧侶には通夜は俗名で行ってもらい、翌日の葬儀は私が行きました。

 

 

しかし、寺院・霊園・葬儀社にとって厳しい時代がやってきました。

廃寺が増えています。

 

永代供養塔link

 

馬に乗った神さま仏さま

動物に乗った神仏は、各地に祀られています。

その内の馬に乗った御尊像を掲載致しました。

 

勝軍地蔵

甲冑を着て馬に乗る地蔵菩薩です。愛宕権現とも呼ばれています。

京都の愛宕山と瓜生山にまつられ、武将の信仰を受けていました。

愛宕山の愛宕権現は、火伏・防火の霊験があると全国に祀られましたが、廃仏毀釈後は多くが破棄されたり燃されました。

 

この図は愛宕権現曼荼羅の一部です。 ブログlink

 

 

江戸愛宕江戸期のお姿です。

勝軍地蔵像は廃仏毀釈後に近くの真福寺に祀られもした。

しかし、関東大震災において焼失しています。

 

 

愛宕権現曼荼羅とお姿掛軸は、愛宕真福寺に奉納致しました。

 

 

愛宕真福寺の勝軍地蔵銅像

 

 

相馬妙見三社

能勢妙見など一部を除き、妙見菩薩は亀蛇に乗っていますが、相馬野馬追で知られる相馬妙見三社は馬に乗っています。相馬野馬追ウィキペディアlink

 

相馬妙見三社 小高神社  中村神社  太田神社

 

多く見られる亀蛇に乗った妙見菩薩

群馬県高崎市 妙見寺

 

 

八幡大神

応神天皇を祭神としているのが、八幡神社です。

源氏など武家の信仰がありました。

 

 

 

養蚕神

蚕の神様です。必ずしも馬に乗っているわけではありません。

桑の枝を持っています。

 

 

 

 

壽命祖神(馬鳴菩薩)

江戸時代に多賀大社の宿坊・観音院で祀られていた壽命祖神です。

勝軍地蔵に似ています。

廃仏毀釈以前は不動院・観音院・般若院・成就院がありました。

 

 

 

馬鳴(めみょう)とはインドの僧侶ですが、馬鳴菩薩がどのような神さま仏さまか不明です。

養蚕神として祀られているところもあります。

 

相染明王

勝軍地蔵そっくりですが、相染明王(しょうぜんみょうおう)です。

 

 

角館西勝薬町は、現在の秋田県仙北市角館町です。

象潟神社(妙見神社)は、廃仏毀釈以前は北辰星並びに相染明王を祀っていました。

 

秋田県岩手県では、厩(うまや)にまつられる神で馬の守護神として蒼前(そうぜん)様とよばれています。

養蚕神とする地域もありました。

 

 

千葉県には馬に乗った馬頭観音石仏が多数あるようです。画像検索link

以前参拝していながら、興味が無かったために撮していない馬乗り馬頭観音石仏がありました。

 

 

八幡大神と各地の八幡宮・八幡神社

八幡大神

八幡神社の祭神は、八幡神(応神天皇)であるとばかり思っていましたが、他の神である神社もありました。

 

 

三社託宣図は天御中主神・八幡大神・春日大神が描かれています。

弓を持ったのが八幡大神です。

 

吉田神道の偽作ともいわれているそうです。八幡大神・春日大神が馬に乗った図もあります。

 

室町時代から江戸時代まで、広く流行しました。

 

各地の八幡宮・八幡神社

八幡神は宇佐八幡宮(大分県)が総本社で、日本全国に勧請されています。

 

石清水八幡宮  京都市八幡市八幡高坊30

平安時代末期に宇佐八幡宮から勧請されました。

 

 

 

鶴岡八幡宮   神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1−31

 

 

 

筑土八幡神社   東京都新宿区筑土八幡町2−1

 

 

 

穴八幡宮  東京都新宿区西早稲田2丁目1−11

 

 

 

金王八幡宮   東京都渋谷区渋谷3丁目5−12

 

 

 

富岡八幡宮(深川八幡宮)   東京都江東区富岡1丁目20−3

 

 

 

旗岡八幡神社  東京都品川区旗の台3丁目6−12

 

 

 

小室八幡神社   千葉県船橋市小室町148

 

 

 

薬師寺八幡宮  栃木県下野市薬師寺1509

 

 

 

横堤妙見八幡神社  茨城県常総市新石下1680

 

 

 

水海道鎮守 八幡神社  茨城県常総市水海道橋本町3329   

 

 

 

妙見八幡神社    茨城県つくばみらい市筒戸3182

祭神は、妙見と八幡でなく妙見八幡大菩薩です。御尊像は妙見菩薩のようです。

 

 

 

小幡八幡宮  群馬県甘楽郡甘楽町小幡1

 

 

 

八幡神社   群馬県多野郡神流町万場

 

 

 

八幡神社     群馬県沼田市

民家の庭にも祀られていました。屋敷神です。

 

 

 

上久屋神社   群馬県沼田市上久屋町1375

明治41年に日枝神社に武尊神社、十二山神社を合祀 し、上久屋神社となりました。

 

しかし扁額には八幡宮とありました。

 

 

春日部八幡宮   埼玉県春日部市粕壁5597

 

 

 

箕田氷川八幡神社    埼玉県鴻巣市箕田2041

 

 

 

鎧宮八幡神社  埼玉県さいたま市岩槻区大字南辻字鎧宮68

 

 

 

津久根八幡神社 埼玉県入間郡越生町津久根23

 

 

 

鎌形八幡宮   埼玉県比企郡嵐山町鎌形1993

 

 

 

八幡神社 埼玉県比企郡小川町大塚427

 

 

 

下浅見八幡神社  本庄市児玉町下浅見879

 

 

 

八幡神社    埼玉県狭山市入間川3丁目6-14

 

 

 

八幡神社  埼玉県飯能市八幡町12−6

 

 

 

諏訪八幡神社 埼玉県飯能市飯能263

武蔵野七福神の恵比寿さん社があります。お諏訪様として親しまれている神社です。

 

 

諏訪八幡神社ブログlink

 

 

まだまだ数多く参拝していますが一部だけです。各地に44,000社もあります。

さらに境内社や祠、合祀社などがあり、八幡神社を名乗らないこともあります。

 

養澤神社  東京都あきる野市養沢1018

熊野神社、八幡神社、日天神社、門客人(あらはばき)神社、譲葉神社を合祀

 

 

龍の狛犬?が迎えてくれます。

 

東入西神社   埼玉県 坂戸市小坂452

 

八幡八坂神社(向かって左)

 

金胎寺内 天満神宮・出世八幡・菅領稲荷    埼玉県深谷市本住町9-76

 

 

数多くの石仏が祀られていました。

 

八幡の藪知らず(やわたのやぶしらず)  千葉県市川市八幡

足を踏み入れると二度と出てこられなくなるという伝承があります。

 

 

 

浅間神社境内社・八幡宮  埼玉県坂戸市北浅羽262

 

 

 

国渭地祇神社内・八幡神社   埼玉県坂戸市森戸616

 

 

 

 

保渡田八幡塚古墳   群馬県高崎市保渡田町2000−1

 

 

おそらくここの古墳には、八幡神社が祀られていたのだ思います。保渡田古墳群には数多くの古墳があります。

かみつけの里博物館見学もお勧めします。

 

 

月岡芳年の八幡太郎義家

芳年武者无類の一点です。

 

 

 

お地蔵さまの図 造作五迷罪 常念地蔵尊 遊戯諸地獄 決定代受苦

かなり古い地蔵菩薩の掛軸です。

吊り下げて祀ることが出来ないほどになっています。

 

 

有名な室町時代の画僧の名が書かれていますが、おそらく後に書き込んだと思われます。

画風が異なるように思います。

 

 

「造作五迷罪 常念地蔵尊 遊戯諸地獄 決定代受苦」

五迷の罪を作っても  常に地蔵尊を念じれば  色々な地獄に落ちても 代わりに苦を受けてくれることは疑いないことです。

鎌倉時代の法相宗僧・貞慶の言葉のようです。

法然による浄土教の台頭に対抗するために、南都仏教が民衆救済の一環として地蔵信仰を積極的に取り入れました。

貞慶の地蔵信仰 邦彦 PDFlink

 

弘法大師は地獄のことを地獄は何れの処にか在る いずれかの自心の中に観ん     弘法大師(秘密曼荼羅十住心論)と説いています。

 

 

木版に彩色が施されています。

 

 

いずれ表装をしたいのですが、まだ先になりそうです。

 

 

良寛図 あしびきの 国上の山の山畑 蒔きし大根ぞ あさずくらいせ君    

あしびきの 国上の山の山畑 蒔きし大根ぞ あさぞ食せ君 

あしびきの くにがみのやまのやまばたけ まきしぞおおねぞ あさぞくらいせきみ

 

 

「あしびきの 国上の山の 山畑 蒔きし大根ぞ あさず食せ君」 はありましたが、下の歌と少し異なりました。

 

 

良寛の元に訪れた客に、大根を振る舞った歌です。

 

 

この掛軸は他にも多くあるようです。

肉筆に見えますが、巧芸品のようです。

 

他の作品では作者名が異なっていました。

良寛の後の文字は、書風が異なります。後で他の人が書き入れたようです。

 

歌とあっていないようにも思われますが、子供と戯れる良寛の人柄が偲ばれる作品です。

 

又野龍也画伯の絵です。

 

 

この絵はお世話になっている方へのプレゼントです。

手元にはありません。

画伯は隣の日高市に住んでいます。日高市link

 

 

泉福寺 重要文化財・阿弥陀如来像収蔵 真言宗智山派 埼玉県嵐山町

泉福寺

泉福寺は無住のお寺ですが、本尊の木造阿弥陀如来坐像が重要文化財に指定されています。

新編武蔵野風土記によれば、建久元年(1190)の開創になるようです。阿弥陀三尊像は慈覚大師の御作とも書かれていますので、古は天台宗だったのかも知れません。

 

像内に仏師定朝の流れをくむ、定生の建長6年(1254)墨銘がありますが、修復名のようです。

開創後の僅か60年で修復とは思われませんので、開創以前の仏像の可能性もあると思います。

 

泉福寺 ウィキペディアlink

 

 

御本堂参拝後に収蔵庫に向かいます。

 

御本堂に祀られていた重文の阿弥陀如来と埼玉県指定有形文化財の観音菩薩・勢至菩薩像が納められている収蔵庫です。

 

 

下記に書きました三門館跡は、NHK放映中の『鎌倉殿の13人』に出て来る比企氏関連として、比企遠宗と妻・比企尼が暮らしていた館跡の説もあります。

新たに作られた看板には、比企尼と思われるイラストが描かれていました。

 

 

収蔵庫内の阿弥陀さまなどを拝観するには、滑川町教育委員会へ申し込む必要があります。

 

泉福寺 埼玉県比企郡滑川町和泉1681 地図link

 

三門館跡

泉福寺東側約200メートルに三門館(みかどやかた)跡があります。

堀と土塁がありますが、築城年代や誰の館であったかは不明です。

泉福寺とも関連があると思います。

 

三門館跡  埼玉県比企郡滑川町和泉1237 地図link

 

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