
妙見堂
円泉寺の妙見堂は、平将門の配下の武将が祀ったと言われる妙見菩薩を祀っていました。現在は二代目です。
脇侍として、秋葉大権現・金毘羅大権現もどのように祀られていたか分かりませんが、併せて祀られていたようです。
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平将門下総北部を地盤としていた平将門(まさかど)は常陸(ひたち)西部に館をもつ伯父の平国香(たいらのくにか)、良兼、良正らと合戦を繰り返しました。
承平五年(九三五)常陸(ひたち)(茨城県)の国蚕飼川(小貝川)に戦ったおり妙見菩薩が将門と平良文の危機を救い、 「自は上野の国、花園と云う寺に在り、汝(なんじ)若(も)し志あらば速やかに我を迎え取るべし。」と述べたと記されています。現在の群馬町妙見寺のことです。 こののち下野(しもつけ)、上野(こうずけ)、相模(さがみ)など諸国の国衙をも制圧して、弟やおもだった従者を関東諸国の国守に任じ、みずから〈新皇(しんのう)〉と称しました。
当時の朝廷は、藤原氏が政権を独占し、群盗がはびこる荒れた時代でした。この反乱は、律令体制からの関東の自立をはかったといわれ、武力による独立国家を主張したとも伝えられています。 しかし天慶三年二月十四日、平貞盛、藤原秀郷(西行、奥州藤原氏の先祖)らの軍勢により、現在の茨城県坂東市(元岩井市) で、39歳(諸説在り)にて亡くなりました。
戦いに敗れた将門の一族残党は各地に隠れ住むようになり、たくさんの伝説は、飯能市近在では秩父、青梅市・奥多摩町・八王子市から山梨の大月市に至っています。 中央の歴史では、将門公は大悪人とされていましたが、当時の関東の民衆は、拍手喝采だったのでしょう。後々関東以北に将門公を悼(いた)み多くの神社などが建てられました。
この流れが、鎌倉幕府の成立につながっていきます。幕府設立に尽力した坂東の勢力は、かつて将門に敵対した勢力も多いのですが、源頼朝をはじめ、将門反乱時に活躍した人々の子孫が数多くいます。 鎌倉幕府設立は将門の意志を受け継ぐ敵討ちだったという人もいます。それは源氏対平家の戦いではなく、実際は平家(平将門勢)対平家(平貞盛、藤原秀郷勢)の戦いだというのです。頼朝配下に入った実力者の名前を見ればそのように思えます。 源義経は、このことも理解していなかったための悲劇だったということでしょう。 将門公を支援した勢力に筑波山の修験がいたという説があります。一族と共に逃れ住み、後世に山伏が多くの伝説を伝えたのだそうです。 また、将門伝説(村上春樹著)によると、江戸時代の将門公に関連する演劇も伝説に大きな影響を与えているようです。
江戸時代には将門を祀る「神田明神(神田神社)」は武州の総社、江戸の総鎮守となりました。神田祭は京の祇園祭、大阪の天神祭とともに日本三大祭とされています。 ![]() 神田明神
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平将門の関連する地区は、成田山にお参りに行かないのが常識ですが、円泉寺が属する真言宗智山派は、三大本山の内の一山が成田山新勝寺です。私は遠慮しながら行っています。成田山では、将門さんを供養しているようです。
私は平将門怨霊説を信じていません。今でも続いているなどと思うのは、この世に、あるいは何かに不満を持つ一部の人だけではないでしょうか。
各地の将門公を祀る寺社で、真摯に手を合わせれば、気持ちよく応じていただけます。いつもそのように感じています。
円泉寺では、妙見菩薩・平将門の資料集をホームページに掲載しております。興味のある方は、クリックしてください。
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国王神社 茨城県坂東市
埼玉県飯能市の平将門伝説 ブログ