仏の国
今から40年ほど前になりますが、総本山智積院の大書院において、若い僧侶にお話をされました。
「仏の国はどこにある。そこにある。そこにある。そこにある。」
と、向かって左側の壁に人差し指で差し、次に私たちに向かって。最後に庭園を指しました。
「それ仏法遥かに非ず 心中にして即ち近し 真如外に非ず 身を棄てていずくにか求めん 。」 (般若心経秘鍵)
40年ほど前は模写がありませんでした。
他の言葉は忘れましたが、この言葉だけは今でも思い出します。
他に浮かんだ言葉が、弘法大師の著・声字実相義の「五大に皆響きあり、十界に言語を具す。六塵悉く文字なり。法身はこれ実相なり」(ごだいにみなひびきあり、じゅっかいにげんごをくす、ろくじんことごとくもんじなり、ほっしんはこれじっそうなり)でした。
簡単すぎる説明ですが、
五大とは、地水火風空。十界とは仏界から地獄までの世界(あらゆる世界)。
六塵とは眼耳鼻舌身意の対象である色声味触法。法身はこれ実相なりとは、仏様はあらゆる世界にいますよ。
となるかもしれません。
また、声字実相義には、仏の中に世界があり、私たちの一毛の中にも仏の世界があると書かれています。マクロからミクロまで、仏様の世界なのです。
御大師様は山野を駆け巡り、自然の中で仏の世界を実感したのに違いありません。
私たちも時々は心を落ち着け、自分を見直す場を作る必要があります。
「仏の国は何処にある。そこにある。そこにある。そこにある。」
仏の国は遠く離れた所で無く、私たちの身近も含まれる世界だったのです。
私たちに向かって指さしたことは、私たちも仏であることを知りなさいといわれたのだと思います。
また曼荼羅として考えても良いと思います。
金剛界曼荼羅
胎蔵界曼荼羅
あらゆる世界を仏様の世界として描かれています。
この中の仏様の廻りに、沢山の仏様が、沢山の仏様の廻りに沢山の仏様が描かれているのです。
これを二次元の図から三次元の図にすると、この宇宙になります。
宇宙から銀河系に、銀河系から太陽系に、太陽系から地球に、地球から日本に、日本から私たちに、私たちからご先祖や未来の子孫、友人、他人、天地自然とあらゆる世界が描かれています。
あらゆる世界が曼荼羅の中に調和されているのが、曼荼羅です。
この世、天国、浄土、地獄など、全てが描かれているのです。
私たちは来世に対して囚われては行けないとも言われているように思います。
しかし、来世を信ずる信じないにかかわらず、多くの方々と社会を営み、色々な方の死を身近にしています。
どのように考えれば良いのでしょう。即身成仏だけでは通夜葬儀の折、檀家さん向けのお話は出来ません。密厳浄土はなじみがありません。
私は、来世があると思い込むことにしています。
檀家さんに対して「天国であるか浄土であるか、間違いなく良い世界に行きます。」とお話ししています。
「きっとご主人、友人、両親、皆同じ世界にいるのです。」とお話ししています。
浄土宗、浄土真宗だけが極楽浄土に行けると思っている方もいるでしょう。あるいは自分の信仰する宗教、会だけが天国極楽に行けると思っている人もいます。
お釈迦様にあるおばあさんが問われました。おそらく初めて会った方でしょう。
「お釈迦様、私は天国に行けますか。」
お釈迦様は、
「あなたは天国に行けますよ。」
と説かれています。人によりその人に合わせて優しい言葉、思いやりを持って話されているのです。
信仰の深さだけが、成仏、来世を決定づけるわけではありません。まずは人として、どのような人なのかが一番大事でしょう。
熱心すぎると日本で言えば、オウム真理教のようになりかねません。
「安心論争」と言う那須猊下(当時は先生)と渡辺照宏先生の面白い議論があります。 真言宗の安心(あんじん) リンク
今の私にとって、この論争は那須猊下の説がためになりました。ただし、渡辺先生の説を否定しているわけではありません。
興味のある方は、読んでください。
猊下が大学の教授であった時の授業、たしか「真言学概論」は、ただただ授業の言葉をノートに書き写すだけでした。何やなにやら難しくて分からなかったことを思い出します。
大書院でのお言葉に「授業でもっと分かりやすく教えてくれれば良かったのに」と、つい思ってしまいました。
授業は後々自分で考えなくてはならない場だったのですね。
那須政隆猊下の書
弘法大師のお言葉
地獄は何れの処にか在る いずれかの自心の中に観ん (秘密曼荼羅十住心論)