先日都下に出かける用があり、今回もAさんに車の運転を依頼し出かけました。
途中先方より午後に予定を変更して欲しいと携帯に連絡があり、急遽堀兼神社と所澤神明社に寄ることにしました。
堀兼神社
埼玉県狭山市堀兼2221
堀兼神社は社伝には、日本武尊が東国平定の際、浅間社を祭った伝えています。
堀兼神社は浅間神社(富士山)としておそらく盛り土の上に建てられたお社です。
しかし水の便が悪く、あまり民家は無かったようです。
実際にはほとんどいなかったのではないかと思います。堀兼神社もそれほど古くないかもしれません。
新田(畑がほとんど)が開かれ、おそらく江戸初期の古くからの家は、菩提寺が上奥富の瑞光寺ですが、分家や新たに来た人が増えると堀兼に光英寺を建立し、そこの檀家となったようです。
瑞光寺の檀家は、ごくわずかだったと思います。
この神社の前の通りは「鎌倉街道上道」の支道で川越市の河越館に続いています。 河越氏
源義経の正妻は河越氏の娘でした。嫁ぐときは、この道を行ったのではないでしょうか。最後まで義経と共に母子は奥州までついて行きました。
堀兼神社には、よく知られる「堀兼の井」があります。
武蔵野の堀兼の井もあるものを うれしや水の近づきにけり(藤原俊成)
他にも西行、清少納言、紀貫之などが詠んでいますが、必ずしもここであるとは言えないようです。
堀兼の井
このような井戸はまいまいず井戸と言われ、昔々まだ井戸を掘る技術がない時代は、らせん状に掘り下げて使用したそうです。
この井戸に似た古い井戸は、40年ほど前に京都の随心院(伝・小野小町化粧井戸)で見たのが初めてです。
堀兼の井とは掘りがたい井戸と言う意味だと聞いたこともあります。
この近くの北入曽に「七曲井」があります。
昭和45年に発掘調査を行った、常泉寺前ご住職(当時は狭山市の教育委員会勤務)は発掘調査の記録に、この七曲井が堀兼の井であると書かれていたのを思い出します。
常泉寺観音堂と七曲井 狭山市北入曽1366
境外仏堂
観音堂すぐ近くの入間野神社にある鎌倉街道上道(かみつみち)の案内板
狭山市大字南入曽641
所澤神明社は次回に致します。