以前ある方から手紙が届きました。ある戒名に関する質問です。
早速読ませていただきましたが、書かれてある江戸末期の人物の戒名が、あり得ない位階で信士号でした。
私の書いたホームページの戒名を読まれて、問合せしてきたようです。真言宗戒名link
その方は、かなりこだわったブログをシリーズごとに書かれていました。
その時は、ある江戸末期の方を書かれた内容です。戒名はその人の戒名です。
訳あって、その特定人物の名前と職業はかけません。
さらに以前、書かれている方を顕彰する看板がある神社二ヶ所に詣でたことがありましたので、すぐに情景が浮かびました。
大きな方の神社には、かなり詳しい説明と瓦版に書かれた画像もあったように思います。
その時は特に「あのような人がいたのか」と思うだけでした。
ブログを詳しく読ませていただき、疑問が湧くばかりでした。
江戸時代は身分によって、戒名の位は固定されていました。日本国内全てが同じだったかは分かりませんが、徳川関連の地域は特に厳しく規定されていたのです。
一般の方が、信士以上の戒名であることは稀だった訳です。
当寺(円泉寺)墓石を見ると、江戸時代は殆どが禅定門でした。ごく一部の家のみが信士です。
その人物の実家は武蔵野国の農家だと思いますので、分家であっても特別の許可がない限り、信士は付くことがあるはずがありません。
実家より二階級も上の戒名でした。
ブログを読むと、地元の郷土史家が、その人物の実家に残された記録などを元に発表された文章が、何かに掲載されているようです。
そのことに対する疑問点が、ブログの中心でした。
その郷土史家に疑問点を問い合わせても、あやふやな返事しか帰ってこなかったそうです。
たしかに瓦版に書かれたことのある人物でしたので、人気のある職業のトップであったことは想像できます。
その人物は、ある上位の武家屋敷で披露した後に、場所は不明ですが、殺されてしまったと伝えられているそうです。
どこに葬られたかも不明なままです。
ブログでは武家の屋敷で披露することは、黒船が来航して、国内が緊張していた時期でしたので、そのような催しをすることが、許されるはずがないと書かれています。
私もそう思いました。
私への手紙には、古い白木位牌の写真も添えられていました。その人物の関係者が、かなり経てから実家に届けた位牌です。
訳あって私の返事は、ブログを書かれている方に満足できる内容どころか、戒名に関してはブログに書くことが出来ない内容でした。
その当時の身分制度は、かなり厳格だったのです。
そのため、その人物のブログは未完のまま終了しています。
今は私的なことが多く書かれています。私より高齢でありながら、しっかりした内容です。
時折訪れて読ませていただいています。