出島や松前藩だけでなく広く門戸を開いて維新をむかえ、海外から一気に新しい学問や技術が入ってきました。
パンフレットを見るだけでも、新しい流れの一部を改めて見直すことが出来ます。
まず大事であったのが、新しい文化を入れる器でした。
各地に学校を開き、教育に力を入れました。女子にも門戸を開きましたが、割合は少なかったようです。
昭和30年代、私が子供の頃でさえ、文字の読めないお婆さんがいました。
海外から、お雇い外国人を招いて、技術や教育の育成にも力を注いでいます。
しかし、元々学問は大事にされていましたので、たちまち知識や技術を吸収していきました。お雇い外国人もグンと少なくなりました。
尺貫法が改訂され、キロやメートルの単位となりました。
上の画像が、重さ、長さを基準とする標準器を運んできた器です。
その内、世界中の機器よりも優れた物が日本人によって開発されるようになりました。
今でも企業として残る東芝などが、日本を牽引していたのです。
蚕はヨーロッパなどで病気が流行り、日本産の糸が海外に輸出されただけでなく、織物も徐々に力を着けていきました。
日本における重要な輸出品でした。鉱業における銀や銅の輸出も大事な産業です。
通信機器の発達は地域だけでなく、日本中に繋がっていきました。
精密機器に必要なコーツは、海外より二桁も精度の高い技術が開発されています。
それらの沢山の技術の開発が行われたのは、誰でも読み書きが出来るようになった学校制度です。
今の日本の発展は、多くの人々の勤勉さと努力のお陰とだったのです。