今から十数年前、たぶんここだったと思いますが、迷って来た記憶があります。看板があり、日本最初の公認された女医とあったように思います。
公認制度のなかった時代のシーボルトの娘・楠本イネは、医師として築地に開業しています。楠本イネWikipediaリンク
当時、楠本イネは知っていましたが、荻野吟子「嘉永4年(1851)~大正2年(1913)」はマッタク知りませんでした。
まだ妻沼町でした。下の看板だったのかもしれません。熊谷市に張り替えてあります。
ここのことは上のPDFが、簡潔に述べられていますので、ぜひ参照してください。
この図は記念館内部にありますが、吟子の生まれた荻野家は、利根川の淵にありました。先祖は栃木県の足利から移住してきたそうです。
当時は利根川が水運の地として栄えていましたが、俵瀬は江戸幕府の方針でここだけ堤防がありませんでした。氾濫時の遊水池としての役割がありました。この氾濫のため農作物が豊かに実りました。
このあたりの家は氾濫に備えて、少し高く土盛りした上に建っていたようです。
この絵に見える長屋門は移築され、対岸の群馬県千代田町にあります。
千代田町側から見た俵瀬です。高い土手があるのが分かると思います。赤堀渡船場があり対岸に渡ることができます。
荻野吟子記念館全体の内部写真を撮り忘れました。情けない!
先ずは6分間のビデオを見せていただきました。三田佳子さんの演劇の取材シーンからです。
係員に案内をしていただきました。
1868年に結婚しましたが、性病をうつされて離婚後に東京で治療をしました。
この時、女医になる決心をしたそうです。
夫の稲村貫一郎は、離婚したとしても親戚として付き合おうと言い、治療、学校への学費から生活費、開業費、再婚後の他の夫への事業資金まで負担していたそうです。
この写真でも分かるように、吟子は小柄な美人だったそうです。
女子師範学校を卒業後、私立医学校好寿院に入学しました。しかし、周りは男子ばかりで冷たくされたようです。
卒業後もなかなか医師試験を受けさせてもらえませんでした。
埼玉県出身の塙保己一の令義解に古代に女性医師がいたことがわかり、医師試験を受けることができました。
やたらと杓子定規な役人がいたようです。
明治17年、34歳で前期試験に合格し、翌年後期試験に合格しました。
5月に湯島に開業しましたが、待合室が女性患者であふれるほどでした。
この後、キリスト教への入信、再婚、北海道での開業など、続くわけですが、先のPDFと東京女子医大のリンクした資料などを参照してください。PDFリンク
利根川の水運も高崎線が通ったために衰退しました。
荻野吟子の兄弟は皆、嫁に行ったり他に移り、ここにはありません。近在の荻野姓の家がありますが、それ以前の分家筋になるそうです。
吟子が学んだ「行余書院」のあった大龍寺です。埼玉県熊谷市葛和田898
聖天山の山門の天井画の一部は、荻野家が納めた画もあるそうです。聖天山歓喜院 熊谷市妻沼1511
ここの繁栄を支えたのが、利根川の水運でした。
私が学生当時は、東武熊谷線は熊谷駅から妻沼駅まで延びていましたが、廃線となっています。
赤岩不動・光恩寺には、移築された荻野家の門と荻野吟子の像があります。光恩寺 群馬県邑楽郡千代田町赤岩1041
めぬま道の駅 バラ園内