幸手市近辺には平将門公関連、あるいは反将門公関連の寺社があります。
併せて近在の気になる寺院も行って来ました。
将門の首塚-浄土真宗東本願寺派系単立 通光山浄誓寺 幸手市神明内1469
ここは相馬小次郎さんの「将門ブログ」で始めてし知りました。将門公の記事がふんだんに掲載されています。
大変な労力ですね。 しばらくぶりに覗いてみると、さらに充実していました。
ここと次の宝聖寺は二度目の訪問です。
ここの首塚については、藤原秀郷と平貞盛の連合軍に敗れ、下総国猿島郡で討たれた将門公の首を愛馬が口で咥えてここに運び、配下の武将が納めたという説と、この地で討ち死にしたため、ここに首を納めたとの、二つの説があるようです。
江戸初期までは幸手は下総国葛飾郡に所属していました。将門公関連の地域に接していたわけです。
浄誓寺の案内板には、この地で討ち死にしたとあります。
ちなみに
- 東京都大手町の首塚は、京都から飛んできて落ちたことになっています。
- 岐阜県大垣市の御首(みくび)神社は美濃国南宮大社の隼人が、飛ぶ首を矢で射落とした所だそうです。
- 静岡県掛川市十九首の十九首塚(じゅうくしょづか)は、将門と家臣合の19人の首塚と伝えられています。
首塚の五輪塔
将門の首塚
真言宗豊山派 大鱗山宝聖寺 幸手市平須賀2-457
この宝聖寺はかなり格式が高く、江戸時代は十三石を賜っていたそうです。


山門前右手にある六地蔵さん。
安永7年
将門降伏に用いたという松虫鈴(銅鈴)と藤原秀郷が将門討伐を祈願して奉納した不動明王の干支軍配団扇が寺宝になっています。
八幡神社と木立の地
八幡神社(幸手市木立)は将門公と戦った藤原秀郷が対陣した場所。木立の地名は将門公の子孫の公達(きんだち)が住み着いたで、昔は公達村と云われたとのこと。
浄土宗 聖福寺 幸手市北1-9-27
ここからは将門公とは関係なくなります。
ここは幸手宿にあり、日光東照宮へ行く徳川家光や天皇の代理で参拝した例幣使(れいへいし)の休憩所となっていました。大変格式のあるお寺です。
勅使門(市指定有形文化財)
ここの境内は幼稚園になっており、中には入れませんでした。元気なお子様の声が響いています。
参道入り口には、芭蕉と曽良の句碑があります。
幸手を行ば栗橋の関 芭蕉
松風をはさみ揃ゆる寺の門 曽良
真言宗豊山派 龍燈山永福寺 北葛飾郡杉戸町下高野 396
幸手のお隣にある施餓鬼寺として知られるお寺です。関東三大施餓鬼「どしょう施餓鬼」の一つだそうです。毎年8月22日・23日の2日間行われます。
儀式に出仕する僧侶の数も多く、多くの檀信徒の参列する大きな法要がいとなわれます。


閻魔堂の閻魔様と脱衣婆
永福寺は杉戸七福神の寿老人の札所でした。
色紙を求めると本堂前においてある御朱印のスタンプは各自押すようになっているようです。
寿老人像
全くの番外ニュース
幸手市の宝聖寺近くの旧幸手高校の近くを通ると、送電線で8人の人が作業をしているのがみえました。

これでは分からないでしょう。

拡大してみると作業員です。
すごいですね。何を行っているかは分かりませんが、初めて見る光景です。
圏央道の幸手IC入口からも見えました。

圏央道の幸手IC入口

ちなみに幸手高校は幸手商業高等学校と再編統合し、旧幸手商業高等学校の所在地で埼玉県立幸手桜高等学校として開校しまた。
幸手市で日本保健医療大学を運営する学校法人共済学園が跡地を購入したようです。
懐かしい学校がなくなるのはさみしいですね。少子化のため日本全国で、このようなことが起きています。
かつて一自治体に高校が一校は欲しいとの思いがあったことをよく耳にしたことがあります。人口の少ない、ここより通学に不便な地域に、ずいぶんできたなあと思ったことがありました。
全くの番外ニュース②
今回各お寺に参拝して気がついたのは、中には入れなかった聖福寺を別として、他の三ヶ寺が永代供養の納骨施設があることでした。
5年前にはほとんどのお寺に無かったと思います。浄誓寺、宝聖寺に来たのは二度目ですが、かつてはありませんでした。
当円泉寺は檀家さんが三件絶えたことと、新たに絶える家が何軒もあり無理して建てた訳です。
他の寺の御住職に聞いても似たようなことを言い、いずれ建設しようと思っているようです。
さて、三ヶ寺の施設をご紹介します。
浄誓寺

永福寺

宝聖寺
どうでも良いことだったかもしれませんが、時代の移り変わりを感じる建設物です。
少子化はいくつもの学校が無くなり、永代供養の施設が増える原因の一つです。
三ヶ寺とも参道や本堂脇にあり、お参りしやすくなっています。お墓の中にある施設もありますが、誰にでも手を合わせていただける場所がいいですね。