もう一週間以上たちますが、群馬県の富岡製糸場を見学してきました。
世界遺産であることは知っていましたが、国宝であったとは知りませんでした。日本を発展させた大事業でした。
日本国内で最所の製糸場として建設され、引き継いだ片倉工業が後世に残していただいたことにより、現在私たちも目にすることが出来るわけです。
平日でしたので、ついた時間が早かったために駐車場に楽には入れましたが、帰るときはいっぱいでした。
団体の見学客が次々にやってきます。
たくさんの見学者
工場内
ただ見て歩くだけでなく、ガイドしていただくことをおすすめします。ひとり200円です。
明治初めの多くの建物群が現在に残されているのに、近代に建てられた物が、壊れているのを見ると、どれだけ海外からあらゆる分野の技術を熱心に習得したのか垣間見ることが出来ます。
ここに残された膨大な遺産だけでなく、外部資料として松江から女工として来た和田英(わだえい・旧姓 横田)の著した「富岡日記」が今も出版され読むことが出来ます。 PDF 富岡日記 リンク
富岡日記(ちくま文庫)
ちなみに和田英の兄弟は、大審院長、鉄道大臣になるなど、秀才の家系のようです。 旧横田家住宅
以前「女工哀史」を読んだことがありました。ガイドさんに聞いたところ「富岡製糸では、そのようなことはありませんでした」「後に造られた製糸工場では、そのようなことがあった所もあるようです」とのことです。
映画の「ああ野麦峠」のようなことは他の工場ではあったのでしょう。
富岡製糸では当時労働時間が、7時間45分と決められていたそうです。
富岡日記を読むと、女工達はかなりの覚悟でここに来たことが分かりますが、思った以上にのびのび働いていたことが知られます。
フランスから来た技術者も、日本人の勤勉さ、能力の高さに舌を巻いたのではないでしょうか。
かつて日本に鉄道が敷かれたとき、外国からの機関士よりたちまち優れた技術を習得し、日本人を馬鹿にしていた人々も悔しがっていたことを何かで読んだことがあります。
当時日本ほど識字率が高く、勤勉な民族はなかったはずです。
追記
以前書いた蚕の神様「衣襲明神」(きぬがさみょうじん)のブログです。ご参照下さい。 リンク