渋沢平九郎を知らない人が、ほとんどだと思います。富岡製糸場の初代工場長だった尾高惇忠の弟、日本資本主義の父と言われた渋沢栄一の見立養子でした。
飯能戦争で自決した地、越生町の墓を二ヶ所を廻りました。お墓は改めて二回に分けます。
明治元年、鳥羽、伏見の戦の後に彰義隊が結成されましたが、袂を分けて振武軍を結成し、平九郎は右軍頭取となっています。彰義隊wikipedia リンク
慶応4年(1868)2月18日に振武軍は、新政府側と戦い続けることにしました。
翌19日に彰義隊の敗残兵とともに一橋領が17ヶ村ある飯能を選び、寺院に宿営しました。
本陣は能仁寺に置きましたが、圧倒的な火力、兵力のために、わずか一日で敗走しました。振武軍最期の地となったわけです。
逃げた渋沢平九郎は、顏振峠にある茶屋で休息しています。
現在は平九郎茶屋となっており、ここに行きましたら女主人より話を聞くことができます。ただし、ここの美味しいうどんを食べながらにして下さい。
この後、黒山村(越生町)に至って、新政府軍に見つかりましたが、どうにか振り払うことができました。
しかし、銃撃により負傷し、ここで自刃したのです。
遺体は近くの全洞院に葬られました。首梟は法恩寺の前にさらしものにされましたが、法恩寺に埋葬されました。
明治7年(1874)に渋沢栄一により、遺骨を谷中の渋沢家墓地に葬ったそうです。いずれ渋沢家墓地にも、お参りしたいと思います。渋沢栄一家の墓 地図
平九郎ぐみ
バスの止まっている場所は、駐車禁止です。
このすぐ手前が自決の地です。
平成15年(2003)4月に来たときの写真です。
平九郎茶屋に行ったのは、二年前でしたので、状況が変わっているかも知れません。
埼玉県飯能市大字長沢1562 地図
平九郎茶屋の後に、黒山の自決の地に向かったのですが、土砂崩れのため通行止めになっていました。
現在の状況は不明です。
このあたりは、ときがわ町、越生町、毛呂山町に接しています。西に向かえば秩父に行くことができます。
追記 2020/12/23
「歌劇幕臣・渋沢平九郎」が、深谷市民文化会館で2021年2月6日に上演されます。
渋沢平九郎自刃の地 埼玉県入間郡越生町大字黒山 地図
←観音寺の板碑 埼玉県吉見町 渋沢平九郎の墓 全洞院 埼玉県越生町→