古城天満宮
古城天満宮は羽生城跡にある神社です。藤原秀郷が西暦879年に創建したと伝えられています。
しかし秀郷は寛平3年(891年)に生まれ、天徳2年(958年)に亡くなられています。
菅原道真は承和12年(845)に生まれ、延喜3年(903)に亡くなられました。
始めて菅原道真を祀ったのが京都の北野天満宮で、天暦元年(947年)創建になりまので、あり得るとすれば天暦年間以降でしょう。
精霊殿落雷事件イラスト(円泉寺蔵)
大宰府において道真死後に落雷など各地で災害が合い続きました。
延長8年6月26日(930年)、清涼殿に落雷があり、菅原道真を陥れた大納言民部卿の藤原清貫などが、亡くなられたり重傷を負いました。
落雷に遭ったわけではありませんが、醍醐天皇は三ヶ月後に亡くなられています。
これらのことから道真が雷神となって災いを起こしたと信じられたのです。精霊殿落雷事件ウィキペディアlink
これらの災いは菅原道真の祟りと信じられ、村上天皇の天暦元年(947年)京都北野に壮大な社殿を建設し、道真公を祭神として祀ったのです。現在の北野天満宮です。
天神とは雷神のことでもありました。
学問の神さまとして信仰されるようになったのは、後々のことです。
羽生城が広田直繁・木戸忠朝の兄弟により開かれたのが、天文年間(1532年から1555年)の中頃です。
武家家伝ー木戸氏によると、直繁は木戸氏の家名を継がず、広田氏の名跡を継いで広田式部少輔と名乗りました。
広田氏は菅原道真の後裔と伝えられています。
直繁の子・為繁は菅原氏を名乗っていますので、広田直繁・菅原為繁の代に羽生城鬼門除けとして、先祖でもある天神社を祀ったのかも知れません。
なかなか立派な座牛がありました。
公園と碑のそばにありますが、本来は参道に面してあったのだと思います。
次に向かう途中に天満宮の鳥居が、南西方向の道路上にありました。
この道路が元々の参道であったのかも知れません。境内の石像物は参道にも建てられていた可能性もあります。
調べましたが、この天満宮に関する資料は、当時の町長・三木辰五郎氏の記した文が、もっとも詳しい資料でした。
しかし、改めて縁起を書き直す必要があると思います。
羽生市北荻島の天神社も藤原秀郷が祀ったと伝えられています。
羽生城跡
ウィキペディアによると築城時期は、
『新編武蔵風土記稿』では、弘治2年(1556年)、木戸忠朝によるものと記している。ただし、『風土記稿』の説を裏付ける資料は存在せず、詳細は定かではない。一方、小田原安楽寺に安置されている三宝荒神像には広田直繁と河田谷(木戸)忠朝の連名で「武州太田庄小松末社三宝荒神、天文五年丙申願主直繁、忠朝」と記されていることから、天文5年(1536年)の時点で直繁が城主を務めていたと推測されている。なお、直繁と忠朝の両者は兄弟である。
とあります。
後北条氏の攻撃を受けて落城後は成田氏の支配のとなり、豊臣秀吉による後北条攻略など戦いにより城を放棄しています。
江戸時代となり、大久保忠隣の領地となりましたが、忠隣改易後に廃城となりました。
忍城と同じく沼に囲まれた、守りに徹した城であったと思います。忍城ブログlink
城に関する遺跡は残されていません。
古城天満宮 埼玉県羽生市東5丁目7-1 地図link