元々は安養寺であったと伝えられています。
この地域の領主となった川窪(武田)新十郎信俊が、慶長13年(1608年)に伝州忠的を中興として迎え、曹洞宗寺院となりました。
信俊の父である武田兵庫頭信實(武田信玄の異母弟)追福のためにために、寺院名は武田信実の輪禅寺玉輪一機居士より一機山輪禅寺に改めました。
川窪(武田)家累代の菩提寺です。河窪も使用したようです。
信俊の子・信貞の代より川窪(河窪)から武田姓に復しています。
武田信俊の描いた鷹絵図が残されています。信俊の旧家臣である千野氏・五島氏が承応2年(1653年)に奉納されました。
山門より御本堂に向かいました。左右に地蔵菩薩が祀られています。
境内では上品なご婦人が掃除をしていました。おそらくここの奥様と思われます。
参道右側地蔵菩薩の隣は千体地蔵堂です。東日本大震災で亡くなられた方々の供養のために建てられたようです。
先ほどの奥様手作りの御尊像のようです。小さな陶器の地蔵菩薩が並んで祀られていました。
掃き清められながら草花も大事にして、気持ちの良い寺です。
新編武蔵野風土記によれば「三尊の彌陀」が御本尊とありましたが、釈迦如来が御本尊のようです。
安養寺の安養は、安養浄土(あんにょうじょうど)から採られています。阿弥陀如来の浄土の意味ですので、西方極楽浄土のことです。最初は阿弥陀さまが祀られていたのでしょう。
安養山・安養院・安養寺のつく寺の御本尊は、最初の御本尊が阿弥陀如来でも、後々に他の仏さまに代わった寺もあります。
道元禅師銅像の前にも、手作りと思われる小さな地蔵菩薩像などが祀られています。
その周りには小さな紫色の草花が咲いていました。
武田家の墓地に向かいます。
川窪(武田)家累代墓地
川窪家は元禄10年(1697年)に知行替えとなりましたが、それ以降の江戸末期までも菩提寺としています。
大名家並みの大きな墓石です。
墓地入口には川窪家が、地域のために尽くされたことを感謝して、記念碑が建てられていました。
※ある大名家の分家さんに話を聞いたことがあります。
「私たちも田舎の菩提寺檀家になれば、戒名の位は院殿大居士になります。だから他の寺の檀家となりました。」と話していました。
本家はもちろん末裔の方々が、いつまでも裕福とは言えないのです。
河窪信俊 ウィキペディアlink 川窪(武田)新十郎信俊 戦国Xファイル link
輪禅寺 埼玉県比企郡小川町上横田1215 地図link