大蔵館跡の一角にあるのが、大蔵神社です。入口は土塁の後であることが分かります。
神社は図の左下になります。
「大蔵館は、源氏の棟梁六条判官源為義の次子・東宮帯刀先生源の義賢の居館で、都幾川をのぞむ大地上にあった。現存する遺構から推定すると、館の規模は、東西170メートル・南北200メートル余りであったと思われる。館のあった名残か、館跡のある地名は、御所ヶ谷戸及び堀之内とよばれる。現存遺構としては、土塁・空堀などがあり、ことに東面100メートル地点の竹林内(大澤知助氏宅)」には、土塁の残存がはっきり認められる。また、かつては高見櫓の跡もあった。なお、館跡地内には、殿城山稲荷と大蔵神社がある。源義賢は、当地を拠点として武蔵を高めたが、久寿二年(1155年)八月十六日、源義朝の長子である甥の悪源太義平に討たれた。義賢の次子で、当時二歳の駒王丸は、畠山重能に助けられ、斉藤別当実盛により木曽の中原兼遠に預けられた。これが、後の朝日将軍木曽義仲である」
源義賢ウィキペディアlink 木曽義仲(源義仲) ウィキペディアlink
新編武蔵野風土記によれば、大蔵神社は安養寺が別当で、山王社であったことが分かります。
「埼玉県の神社」によると日吉山王権現と思われる僧形の立像が奉安されているとあります。
八坂神社
神楽殿
東側の鳥居には大蔵稲荷大明神とありました。大蔵神社と稲荷神社が合祀されているようです。
冨士浅間神社と山王大明神
次に大蔵神社の別当であった安養寺に向かいました。安養寺ブログlink
大蔵神社 埼玉県比企郡嵐山町大蔵522 地図link