都内に用があり、真言宗智山派総本山智積院の別院真福寺に行きました。
江戸時代は新義真言宗江戸四箇寺の一寺で、他に知足院・円福寺・弥勒寺があります。
江戸四箇寺は現在の智山派・豊山派・新義真言宗の大事な行政機関でした。
ここでの目的は、勝軍地蔵像参拝と経典を求めるためです。
先ずは勝軍地蔵へお参りです。
徳川家康は本能寺の変が起こったとき、境(大阪府堺市)に少人数でいました。
岡崎城に戻るには、見つからないよう東海道を避けて甲賀・伊賀から甲賀衆・伊賀衆に守られ帰参することが出来ました。
甲賀衆・伊賀衆共に徳川家に取り入られています。
甲賀衆の多羅尾家から家康に渡った勝軍地蔵が、愛宕神社に祀られました。
明治となり廃仏毀釈で廃された愛宕神社別当・円福寺の勝軍地蔵が真福寺に祀られました。
しかし、関東大震災で焼けてしまったために、銅製の御尊像を祀りました。この像は昭和9年の造顕です。
何度も来ているのですが、建物の南側庭園にありますので、マッタク気がつきませんでした。
真福寺
説明にありますように、この後参拝する愛宕神社は円福寺(新義真言宗江戸四箇寺)が別当でした。円福寺が廃仏毀釈により廃されると、真福寺に勝軍地蔵像は祀られていましたが、関東大震災で焼失しました。
関東大震災 愛宕山より見たる芝 京橋一帯
愛宕山雪景眺望の図(山本昇雲画) 愛宕神社男坂 明治期 溝は櫻川 ※風俗画報より
おそらく江戸期の勝軍地蔵お姿を手に入れましたので、添付します。
森末義彰氏の東京文化財研究所刊行物リポジトリPDFが為になります。リンク
愛宕権現で行われていた強飯式と思います。
歌川広重の名所江戸百景から愛宕下藪小路です。赤い門が真福寺です。
愛宕下藪小路の錦絵
御本堂をお参りすると写経を行っていました。
今日は御本尊薬師如来の縁日でもあり、正午にお護摩も行われていました。
上がらせていただき写経の邪魔にならないよう、脇の方から小さい声でお唱え致しました。
経本を送っていただく手配をした後、愛宕神社にお参りしました。愛宕神社ブログ
愛宕下絵図
明治になり多くのお寺が廃されたり、移転したことが江戸の地図を比べると分かります。
愛宕曼荼羅
勝軍地蔵掛軸とお姿は、ほとんどを真福寺に奉納致しました。
※かつて京都の愛宕山に祀られていた勝軍地蔵は、廃仏毀釈後に西京区大原野南春日町の金蔵寺に祀られています。
※追記2023/12/04
かなり前に求めた「真福寺御本尊薬師如来」のテレフォンカードがありました。
今は使うこともなく、しまったままです。
テレフォンカードを必ず持って出かけていた当時を思い出します。
今はスマホの時代ですからね。