千葉市立郷土博物館、七天王塚、栄福寺、千葉神社に行ってきました。四回に分けて掲載いたします。
朝8時に出かけ、17時半の帰宅です。
まずは、千葉市立郷土博物館で開催された「千葉妙見大縁起の世界―千葉妙見大縁起絵巻の全容―」です。
JR本千葉駅より歩きました。
平成28年8月9日(火曜日)から平成28年年12月11日(日曜日)まで開催され、会期中展示替えが行われます。 企画展link
千葉市立郷土博物館
千葉市中央区亥鼻1-6-1 地図
亥鼻城址
千葉常胤の銅像
城跡に文化施設があり、城を模した館物が千葉市立郷土博物館になっています。
お城に入ると受付の先に大きな千葉妙見大縁起のパネルがあります。
上記は平将門、平良文の前に現れた七星山息災寺(現・天台宗妙見寺 高崎市引間)妙見菩薩。
妙見寺へは何度もお参りに行っています。近くには国分寺跡もありますので、今年中には、また訪れてみる予定です。地図
ちなみに高崎市新町にも日蓮宗妙見寺があります。
千葉妙見大縁起(栄福寺蔵) link より
上・下二巻の絵巻は、千葉氏が妙見尊の御加護によって数度に及ぶ合戦に勝利をおさめた様子を描いたものです。
絵巻の 奥書(おくがき) から、享禄元年(1528)本庄伊豆守 胤村(たねむら) が 詞書(ことばがき) を作らせ、その後天文19年(1550)詞書と絵を合せて上・下二巻の絵巻にさせたと思われます。
(千葉市教育委員会『千葉市文化財マップ』より抜粋)
千葉神社の前身である 北斗山金剛授寺(ほくとざんこんごうじゅじ) ( 妙見寺(みょうけんじ) )の19世 光雅(こうが) が 寛文(かんぶん) 2年(1662)11月に書いた『 下総(しもうさ) 国千葉郷妙見寺大縁起』によると、この絵巻はもと妙見寺にあったが、光雅が住僧となった 寛永(かんえい) 19年(1642)10月にはすでに 栄福寺(えいふくじ) の所蔵に移っていたという。
(千葉市『千葉市の散歩道』より抜粋)
絵巻の 奥書(おくがき) から、享禄元年(1528)本庄伊豆守 胤村(たねむら) が 詞書(ことばがき) を作らせ、その後天文19年(1550)詞書と絵を合せて上・下二巻の絵巻にさせたと思われます。
(千葉市教育委員会『千葉市文化財マップ』より抜粋)
千葉神社の前身である 北斗山金剛授寺(ほくとざんこんごうじゅじ) ( 妙見寺(みょうけんじ) )の19世 光雅(こうが) が 寛文(かんぶん) 2年(1662)11月に書いた『 下総(しもうさ) 国千葉郷妙見寺大縁起』によると、この絵巻はもと妙見寺にあったが、光雅が住僧となった 寛永(かんえい) 19年(1642)10月にはすでに 栄福寺(えいふくじ) の所蔵に移っていたという。
(千葉市『千葉市の散歩道』より抜粋)
別のlinkも参考になります。
縁起絵巻は千葉県指定有形文化財になっています。
企画展の入り口では千葉常胤の像が迎えてくれます。千葉常胤Wikipedia link
企画展の中は、いくつかに分かれており、時代ごとに分かりやすく解説されています。
千葉妙見大縁起は第一巻が展示されていました。部分だけです。
展示替えされていくようです。
①10月18日(火)より展示開始
②11月 1日 (火)場面替え
③11月15日(火)場面替え
④11月29日(火)場面替え
③11月15日(火)場面替え
④11月29日(火)場面替え
これらは撮影禁止でしたので、パンフレットの画像などを参照してください。
パンフレットの裏面一部分
撮影可の場所だけ撮してきました。
千葉氏の末裔が各地に移住すると、各地に妙見菩薩を祀りました。
北は青森県、南は鹿児島県まで祀られています。
展示パネルの説明が書かれています。31枚全部いただいてきました。
左が堀内神社に祀られていた妙見菩薩像(複製)と右、東保胤氏より寄贈された妙見菩薩像の複製。
神田明神の平将門と七人の影武者の掛け軸(複製)もありました。
平安以前の発掘物も展示されていました。
以前来たとき求めた「紙本著色 千葉妙見大縁起絵巻」(千葉市立郷土博物館刊)は、まだ在庫があるようです。
妙見菩薩に関しては、二階堂善弘氏(関西大学)の「妙見菩薩と真武信仰における文化交渉」PDFがためになります。link
日本全国の妙見菩薩・平将門関連資料集が私のHome pageにあります。
但し、専門家ではありませんので間違いも多いと思います。 link
郷土博物館を出ると、ちょうど昼頃です。
城址内すぐ近くにある「いのはな亭」で食事をしました。
うどんにしましたが、結構美味しいです。甘い物なども多く、私以外は女性ばかりでした。
水琴窟もありました。
次に近くの千葉大学医学部内と道路反対側にある七天王塚に向かいました。
七天王塚は平将門公の七人の影武者の墓とも伝えられています。