2018年05月11日

根来寺の興教大師覚鑁聖人と一行阿闍梨の掛軸

この掛軸は両方とも工芸品です。

当寺は新義真言宗系の真言宗智山派に属します。他にも豊山派、新義真言宗があり、両祖大師として弘法大師と興教大師覚鑁上人は、大事な方々です。

 

 

お勤めの時や、ご法事には、必ず両祖大師の御法号「南無大師遍照金剛」「南無興教大師覚」とお唱えいたします。

興教大師覚鑁聖人は平安末期の嘉保2年(1095年)-康治2年(1144年)の僧侶で、高野山の座主を務めていました。

訳あって山を下り弘田荘内に移り、根来寺の祖となりました。
今の根来寺は規模が小さいですが、室町時代には450の坊があったそうです。

豊臣秀吉に根来寺は焼かれ、多くの僧侶は全国に散らばりました。

 

根来寺 根本大塔

徳川側であったために、江戸時代には重用されたようです。智山派、豊山派、新義真言宗は、関東に多くの寺院があります。

廟のある真義真言宗総本山根来寺には、三回お参りに行きました。

本坊 根来寺事務所

根来寺  和歌山県岩出市根来2286 

 

多くの学侶(僧侶)と行人(僧兵とは言わない)がおり、行人は根来衆と呼ばれ、大きな力を持っていました。
根来の行人は、頭を丸めておらず、髪の毛を背中まで長く伸ばしていました。何処からも根来の行人と分かる姿だったようです。

種子島から天文13年(1544)鉄砲を伝えたのが、根来の行人でした。ヤフー知恵袋
ポルトガル人が、再び日本に大量の鉄砲を持ってきましたが、日本各地で、もっと優れた鉄砲が作られていたために、売れなかったと聞いたことがあります。

その時、銃の部品を止めるネジを知り、日本でもネジが作られるようになりました。
優れた職人が、日本にはたくさんいた訳です。

そのこともあり、アジアで植民地にならなかったのです。


徳川家康側だった雑賀衆、根来衆などに危機感を覚えた豊臣秀吉により、多くの建物が焼かれてしまいました。

多くの僧侶達は、日本全国に散らばり、江戸時代になると、重く用いられる僧侶も出ました。
特に新義系の寺院が関東に多いのは、このためでもあります。江戸時代は全国に約1万五千もの寺院があったそうです。

幕府に仕えた行人もおり、根来の姓を名乗ったそうです。
日本で最初に根来を名乗ったようです。

今でも智山、豊山、新義を合わせて、約六千ヶ寺あります。

 

一行阿闍梨は、真言八祖の一人です。

 

 

向きが反対になりますが、興教大師像とほぼ同じ図柄です。うっかり興教大師と間違えそうです。

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