買い物の後に通ったことのない道を敢えて運転してみました。
看板に太田道真隠棲の寺とありましたので、参拝することに致しました。
御本尊は延命地蔵尊です。
建康寺 越生町小杉
関東管領上杉家一族の家宰として、関東にその名を馳せた太田道真は、息子の道灌とともに江戸城、岩槻城、河越城を築いたのち、越生に本拠を移した。
ここ大字小杉陣屋付近が、道真居館・自得軒の跡地と推定され、「太田道真退隠地」として埼玉県の旧跡に指定されている。
文明十八年(1488)六月、道灌は友人・万里集九を伴って道真のもとを訪れた。
万里の詩文集『梅花無尽蔵』には、その折り詠じた次の七言絶句が収められている。
稀郭公(ほととぎす稀なり)
縦有千声尚合稀(縦へ千声ありと云えども尚合ふは稀なり)
況今一度隔枝飛(況んや今一度枝を隔てて飛ぶをや)
誰知残夏以初夏(誰か知らん残夏初夏に似たるを)
細雨山中聴末帰(細雨山中に聴いて未だ帰らず)
翌七月、道灌は相模国糟屋(神奈川県伊勢原市)で主君上杉定正に謀殺され、自得軒が父親最後の対面の場となった。
道真は道灌の菩提を弔い、越生山健康寺を開いたという。
門前に架かる道灌橋の対岸には、道灌が調馬した馬場があったと伝わる。
また、堰と導水路の跡が遺る水車「才車」の「才」は、城塞(城砦)の塞(砦)に由来するとの説もある。
令和二年四月三十日
越生町教育委員会
とありました。
※この時代もホトトギスは郭公「カッコウ」と呼ばれていたのですね。
由緒のある寺院ですが、越生町には道灌ゆかりの地が各地にあるわりには知られていません。
龍穏寺 太田道灌の墓ブログlink 山吹の里 太田道灌 ブログlink
「要望!! 太田道灌公をNHK大河ドラマに!!」 とありました。
檀家さんが蓮を育てているのでしょう。何鉢か置かれていました。
御本堂の裏手に回ると、聖徳太子堂に至ります。
大きな銀杏を過ぎると、急な階段がありました。手すりを持ちながら登ります。
小さな御堂ですが、中には聖徳太子が祀られていました。
昼頃でしたので、かなり暑かったのですが、木立のお陰で涼しく感じられます。
ここでもかつて職人達が太子講を組織していたそうです。
御堂から前方を眺めると、かなり高低差があることが分かります。
足下に注意しながら参拝する必要があります。
しかし、気持ちよくお参りすることが出来ました。
※後で気がつきましたが、参道を南に行くと越辺川(おっぺがわ)に架かる道灌橋がありました。
写真が前後致しましたが、入口には地蔵菩薩が祀られています。
ここに着くと、ご婦人が赤い帽子と肩掛けを着せ替えていました。
ここに車を駐めることができます。
「小説太田道灌」竜門冬二PHP文庫1994年を元に書かれた資料を使用させていただきます。
太田道真
道灌の父。名は資清(すけきよ)。あまりにも才気煥発な息子資長(道灌)に、しばしばやりこめられ、そのことにわだかまりを持ち、シコリを残した珍しい父親。
そのため、なかなかの力を持ちながらも、資長の策には必ず反対した。
しかし、武にも文にもすぐれた武将で、道灌の文学好きはあきらかに、この父の血による。
道真は息子道灌が殺された時、すでに八十歳近かったが、武蔵越生の別邸にいた。明応元年(1492)没。
建康寺 埼玉県入間郡越生町小杉 地図link
太田道真・道灌の築いた江戸城(皇居)・岩槻城のブログです。