総本山智積院

智積院47世能化 瑜伽教如大僧正書 「南無大師遍照金剛」

円泉寺が属する真言宗智山派総本山智積院の第14世・瑜伽教如大僧正が書かれた「南無大師遍照金剛」の掛軸です。

瑜伽僧正は声明の大家として知られ、大正6年収音レコードになり、さらにCDにされて現在でも販売されています。

 

私も持っているのですが音質が悪く、あくまでも貴重な資料としています。

 

瑜伽僧正の書かれた掛軸ですが、印刷なのかも知れません。

 

 

 

生年  弘化4年7月12日(1847年)
没年  昭和3(1928)年12月20日
出生  地越後国(新潟県)

 

滝承天猊下の書 「佳境」

大正15年に書かれた、智積院能化・滝承天猊下の書「佳境」です。

 

 

 

 

 

おそらく智山派末寺檀家さんの家に伝えられていた掛軸と思います。

良い書を手に入れることが出来ました。

 

滝承天猊下

愛知県に嘉永6(1853)10.8生まれました。

甚目寺にて得度。

明治12年に智積院の一山庶務を担当しました。

明治27年、神照寺住職、  明治29年に大須宝生院兼務。

明治39年、長久寺住職。

大正5年、真言宗智山派管長・智積院化主に就任。

昭和8年、川上貞奴が建立した貞照寺の第1世にもなられています。

昭和16(1941)9.11、89歳にて遷化されました。

 

 

三神快運猊下の書「緑帳庭龍晩涼多」

真言宗智山派総本山智積院能化47世・三神快運猊下1836年(天保7年)~1905年(明治38年)の書「緑帳庭龍晩涼多」です。

私は智山派の末席に繋がる住職ですが、私が生まれる46年前に遷化されています。

 

 

恥ずかしながら「緑帳庭龍晩涼多」の意味が分かりません。

一文字一文字は分かるのですが、情けないことです。

豊かな木々に囲まれ、よく手入れをされた庭園にて、夕涼みを楽しむ情景かとも思います。

 

 

三神快運猊下は越後出身です。

1836年(天保7年)に生れ、1843年(天保14年)越後築地宝持院(現在智山派)で出家、1852年(嘉永5年)智積院で学びました。

1857年(安政4年)徳島や淡路などで学び、諸流を伝授した後に郷里に帰っています。1868年(明治1年)宝積院住職となりました。

1880年(明治13年)から宗務を担当し、化主に随行して巡錫しています。

1897年(明治30年)4月2日、智積院化主(46世)。大学林主管、真言宗長者(東寺247世)を兼ねました。

1899年(明治32年)2月13日隠退して大報恩寺(京都市)に隠居。のち宝積院に帰り、1905年(明治38年)5月7日70歳にて遷化されています。

 

京都の名勝庭園 総本山智積院 京都市東山七条

小堀遠州による池泉回遊式庭園です。

国指定名勝となっています。

 

 

50年近く前に、大学当時の同窓生や後輩に対して、大書院で智積院の説明をしたことがあります。

「智積院の末寺には、成田山・川崎大師・高尾山があります。」

すると他の参観者10名ほどが、一斉に振り向きました。智積院より、はるかに有名な寺院だからです。

関東から来られた人が多かったのかも知れません。

パンフレットを読んでいれば分かることなのですが、これら関東三山が末寺とは、マッタク知らなかったようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大書院に描かれていた国宝障壁画は、収蔵庫での拝観となります。

ここには現在、模写が使用されています。

智積院の桔梗紋link

 

※写真は12年前に撮影致しました。

 

真言宗智山派総本山智積院 京都市東山区東山七条  地図

 

智積院第七世化主 運敞僧正の書「群玉府」巧芸品

泊如運敞僧正(1614~1693)は智積院の教学を隆盛に導来ました。

この時期には1300名の僧侶が学んでいたそうです。

 

 

境内の密厳堂の建立や利休好みと言われる名勝庭園も僧正の力です。

残念ながら巧芸品ですが、まさか手に入れることが出来るとは思っていませんでした。

余裕が出来ましたら、表装に出したいと思います。

総本山智積院 運敞僧正忌 リンク

 

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釋道本憲壽の書 和合楽 良藥苦於口

江戸期に御本山智積院に40年間在住していた僧侶です。

信州で生まれ9歳で出家しました。信州の智山系の寺院だったのかは分かりません。江戸時代は仏教総合大学のような寺院であった京都智積院に入りました。

この当時の智積院は超優秀な僧侶が学ぶ寺院で、真言宗以外の僧侶も大勢学んでいました。

多い時期は3000人も学んでいたそうです。智積院ホームページlink

 

法名は憲壽、字は虎溪、法号は道本、号を安忍子・不可得・楽々庵などと称していました。

後に京都の六波羅蜜寺、10年間佐渡の蓮華峰寺、江戸浅草・石清水八幡宮別当大護院住職となりました。

江戸では他宗旨の僧侶とも広く交流していたそうです。

安政4年(1857)8月に亡くなり、享年91歳でした。

 

和合楽

歌舞伎や浄瑠璃の外題にあるそうです。

「わごうらく」と読みますが、意味は分かりません。「夫婦和合して楽来る」夫婦仲良くでしょう。

 

 

 

良薬於苦口

良薬は口に苦しです。出典は『孔子家語』です。「孔子曰、良藥苦於口、而利於病。忠言逆於耳、而利於行」

私に対する、戒めの言葉です。

 

 

虎溪道本、印は憲壽道本とあります。

 

大護院は廃仏毀釈によりありません。浅草・石清水八幡宮は蔵前神社となっています。

本寺は御室御所仁和寺でしたが、関東では実質的に新義真言宗系(現在の智山派・豊山派・新義真言宗)の僧侶が住職をしている寺院が多くありました。

 

追記 2020/07/21

岡谷市の正光寺ホームページに釈道本の記載がありました。

「当山第十九世法印憲快は、憲寿と法兄弟の間柄であったので、当山は憲寿の書蹟を多数伝存する。」とあります。

     照光寺ホームページlink

前照光寺御住職・宮坂宥勝師は、真言宗智山派管長・総本山智積院化主でした。

 

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真言宗智山派 総本山智積院の桔梗紋

智積院は真言宗智山派の総本山です。

紋は桔梗ですが、智山派の宗紋も同じ桔梗紋です。

 

かつて智積院は紀州(和歌山県)根来寺の塔頭でした。しかし、根来寺は豊臣秀吉に疎まれており、一山が焼き討ちになってしまいました。

豊臣秀吉

 

関ヶ原の戦いにおいて勝利した徳川家康により、京都の豊臣秀吉を祀る豊国社の一部を玄宥僧正に与えられ、智積院を再興したのです。

 

徳川家康

 

さらに豊国社境内の豊臣秀吉の子・鶴松の菩提を弔う寺・祥雲禅寺を徳川家康から賜っています。

 

 祥雲禅寺を建立したときの造営奉行を行ったのが、築城の名手と言われた加藤清正でした。

加藤清正

 

蛇の目紋

 

清正の紋は蛇の目が知られていますが、桔梗紋も使用されています。

 

 衣装が桔梗紋です。

 

祥雲禅寺はこの桔梗紋を寺紋にしました。智積院はそれを受けついています。

 

私が智積院にいた頃は、あまり桔梗はありませんでしたが、現在は桔梗の花が沢山植えられています。

近年は紅葉、梅、桔梗など、花の名所として知られるようになりました。

  紅葉 リンク        梅 リンク         桔梗 リンク

 

加藤清正の桔梗紋

清正は桔梗紋を使用していませんでしたが、秀吉の家臣である尾藤知宣がが使用していた紋です。

知宣は秀吉の咎めをうけて失脚し、所領を没収されました。

秀吉は知宣が用いていた家具や武具を清正に与えましたが、これに使用されている紋が桔梗紋でした。知宣の家臣も300人ほど召し抱えています。

 

真言宗智山派 総本山智積院 リンク

 

智積院の境内画像 不動明王などのお姿 リンク          サントリー美術館「智積院の名宝」展 リンク

 

 

智山化主・斉藤隆現大僧正の書

戦前から当寺に掛けられているのですが、由来は聞くのを忘れてしまいました。

先々代の児玉政義和上の時です。

 

 

 

智積院65世 斉藤隆現化主猊下(明治1(1868)7.27~昭和22(1947)9.17)

 

「知恭」の意味は私には分かりません。

 

那須政隆猊下の言葉 「仏の国は!」

仏の国

今から40年ほど前になりますが、総本山智積院の大書院において、若い僧侶にお話をされました。

「仏の国はどこにある。そこにある。そこにある。そこにある。」

と、向かって左側の壁に人差し指で差し、次に私たちに向かって。最後に庭園を指しました。

 

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40年ほど前は模写がありませんでした。

20172229623.jpg名勝庭園

他の言葉は忘れましたが、この言葉だけは今でも思い出します。

 

そのとき浮かんだ言葉が、弘法大師の著・声字実相義の「五大に皆響きあり、十界に言語を具す。六塵悉く文字なり。法身はこれ実相なり」(ごだいにみなひびきあり、じゅっかいにげんごをくす、ろくじんことごとくもんじなり、ほっしんはこれじっそうなり)でした。

簡単すぎる説明ですが、

五大とは、地水火風空。十界とは仏界から地獄までの世界(あらゆる世界)。

六塵とは眼耳鼻舌身意の対象である色声味触法。法身はこれ実相なりとは、仏様はあらゆる世界にいますよ。

となるかもしれません。

 

また、声字実相義には、仏の中に世界があり、私たちの一毛の中にも仏の世界があると書かれています。マクロからミクロまで、仏様の世界なのです。

御大師様は山野を駆け巡り、自然の中で仏の世界を実感したのに違いありません。

私たちも時々は心を落ち着け、自分を見直す場を作る必要があります。

 

「仏の国は何処にある。そこにある。そこにある。そこにある。」

仏の国は遠く離れた所で無く、私たちの身近も含まれる世界だったのです。

私たちに向かって指さしたことは、私たちも仏であることを知りなさいといわれたのだと思います。

 

また曼荼羅として考えても良いと思います。

 

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金剛界曼荼羅

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胎蔵界曼荼羅

 あらゆる世界を仏様の世界として描かれています。

この中の仏様の廻りに、沢山の仏様が、沢山の仏様の廻りに沢山の仏様が描かれているのです。

これを二次元の図から三次元の図にすると、この宇宙になります。

宇宙から銀河系に、銀河系から太陽系に、太陽系から地球に、地球から日本に、日本から私たちに、私たちからご先祖や未来の子孫、友人、他人、天地自然とあらゆる世界が描かれています。

 

あらゆる世界が曼荼羅の中に調和されているのが、曼荼羅です。

この世、天国、浄土、地獄など、全てが描かれているのです。

私たちは来世に対して囚われては行けないとも言われているように思います。

 

 

しかし、来世を信ずる信じないにかかわらず、多くの方々と社会を営み、色々な方の死を身近にしています。

どのように考えれば良いのでしょう。即身成仏だけでは通夜葬儀の折、檀家さん向けのお話は出来ません。密厳浄土はなじみがありません。

 

私は、来世があると思い込むことにしています。

檀家さんに対して「天国であるか浄土であるか、間違いなく良い世界に行きます。」とお話ししています。

「きっとご主人、友人、両親、皆同じ世界にいるのです。」とお話ししています。

 

浄土宗、浄土真宗だけが極楽浄土に行けると思っている方もいるでしょう。あるいは自分の信仰する宗教、会だけが天国極楽に行けると思っている人もいます。

 

お釈迦様にあるおばあさんが問われました。おそらく初めて会った方でしょう。

「お釈迦様、私は天国に行けますか。」

お釈迦様は、

「あなたは天国に行けますよ。」

と説かれています。人によりその人に合わせて優しい言葉、思いやりを持って話されているのです。

 

信仰の深さだけが、成仏、来世を決定づけるわけではありません。まずは人として、どのような人なのかが一番大事でしょう。

熱心すぎると日本で言えば、オウム真理教のようになりかねません。

 

「安心論争」と言う那須猊下(当時は先生)と渡辺照宏先生の面白い議論があります。  真言宗の安心(あんじん) リンク

今の私にとって、この論争は那須猊下の説がためになりました。ただし、渡辺先生の説を否定しているわけではありません。

興味のある方は、読んでください。

 

猊下が大学の教授であった時の授業、たしか「真言学概論」は、ただただ授業の言葉をノートに書き写すだけでした。何やなにやら難しくて分からなかったことを思い出します。

大書院でのお言葉に「授業でもっと分かりやすく教えてくれれば良かったのに」と、つい思ってしまいました。

授業は後々自分で考えなくてはならない場だったのですね。

 

那須政隆猊下の書

 

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弘法大師のお言葉

地獄は何れの処にか在る いずれかの自心の中に観ん   (秘密曼荼羅十住心論)

 

真言宗智山派 総本山智積院 京都市東山七条

当寺の総本山智積院へ参拝致しました。

現在は御本山の重要な儀式が執り行われています。

 

以前は樹木が少なく、落ち着いた雰囲気でなかったのですが、ズイブンと景観が良くなりました。

 

金堂(本堂)へ向かいます。

江戸末期に土佐藩が駐屯しており、火薬庫の爆発により重要な建物、宝物などが燃えてしまいました。金堂は昭和50年に再建されました。

 

金堂の隣にある現在の不動堂は講堂の跡にあり、金堂ができるまでは御本堂でした。

 

不動堂の前を南に向かうと、宗務庁になっています。智積院の敷地が京都市立美術大学になり、美大が移転するに当たり買い戻した場所です。

購入にあたり、京都女子大と競り合ったと聞いています。

何かの災害の時に使用することも想定して、智積院に軍配が上がりました。

宗務庁はは美大の校舎を直して使用しています。

 

以前ご寄付したときの標である石柱ががありました。本日の参拝は、これを確認するためでもあります。

 

宝物館と講堂、名勝庭園に向かいます。

 

講堂は以前の御本堂より、より広い面積があります。

 

ここが本来の正面玄関です。向かいに東山七条の通りが見えます。

 

玄関を入ると布袋の図が迎えてくれます。明治の画家・月樵(げっしょう)により描かれました。

 

大書院から見る名勝庭園です。利休好みの庭と言われ、桃山時代に小堀遠州により造営されましたと伝えられています。

 

ここの景観を利用して、CMなどの撮影に使用されたことが何度かあります。

 

大書院には国宝障壁画がありましたが、現在は収蔵庫に移されています。

現在の絵は似せて作られた作品です。

テカテカして落ち着きがありませんが、書かれた当時は同じようだったのかも知れません。

 

この後で収蔵庫に向かいましたが、中は撮影できません。

 

智積院の桔梗紋link

 

総本山智積院 京都市東山七条 地図

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