2023年05月12日

十王堂 埼玉県ときがわ町

十王堂は地蔵菩薩を中心に右に閻魔大王、左に奪衣婆を祀ります。

かつては十王も祀られていたのかも知れません。

どこかの寺院の境外仏堂かと思いましたが、地元の方々が維持管理しているようです。

 

道路に面して石仏が祀られています。

 

一番のお気に入りは、馬頭観音様です。

 

弁財天、大黒天、聖徳太子が並んでいました。

 

道路の反対側には大山阿夫利神社の灯籠があります。

裏面には文政八年(1825年)と明治二十八年(1895年)の文字が彫られていました。

 

十王堂  埼玉県比企郡ときがわ町五明128   地図link

 

天台宗 安養寺 埼玉県嵐山町

先ほど参拝した大蔵神社の別当であった天台宗安養寺です。

戦後に作家の今東光氏が、安養寺の復興のため特命住職をしていたことがありました。印税の中から、かなりの負担をしていたようです。 今東光ウィキペディアlink

 

山門は天保10年(1839年)の造営になります。

 

 

御本尊は阿弥陀如来です。

 

右脇の石碑は「埼玉育児院発祥之地碑」とありました。

現在は川越市に移転されていますが、安養寺住職が大正元年(1912年)に埼玉県初の孤児や貧しい子供を預かる施設を造りました。

後に東松山市に、さらに現在は川越市に移されています。埼玉育児院設立の経過 嵐山町web博物誌 link

 

かつて安養寺が別当をしていた大蔵神社 ブログlink

 

安養寺 埼玉県比企郡嵐山町大蔵299 地図link

 

大蔵神社 埼玉県嵐山町

大蔵館跡の一角にあるのが、大蔵神社です。入口は土塁の後であることが分かります。

 

神社は図の左下になります。

 

 

 

「大蔵館は、源寺の棟梁六条判官源為義の次子・東宮帯刀先生源の義賢の居館で、都幾川をのぞむ大地上にあった。現存する遺構から推定すると、館の規模は、東西170メートル・南北200メートル余りであったと思われる。館のあった名残か、館跡のある地名は、御所ヶ谷戸及び堀之内とよばれる。現存遺構としては、土塁・空堀などがあり、ことに東面100メートル地点の竹林内(大澤知助氏宅)」には、土塁の残存がはっきり認められる。また、かつては高見櫓の跡もあった。なお、館跡地内には、殿城山稲荷と大蔵神社がある。源義賢は、当地を拠点として武蔵を高めたが、久寿二年(1155年)八月十六日、源義朝の長子である甥の悪源太義平に討たれた。義賢の次子で、当時二歳の駒王丸は、畠山重能に助けられ、斉藤別当実盛により木曽の中原兼遠に預けられた。これが、後の朝日将軍木曽義仲である」

源義賢ウィキペディアlink      木曽義仲(源義仲) ウィキペディアlink

 

新編武蔵野風土記によれば、大蔵神社は安養寺が別当で、山王社であったことが分かります。

「埼玉県の神社」によると日吉山王権現と思われる僧形の立像が奉安されているとあります。

 

八坂神社

 

神楽殿

 

東側の鳥居には大蔵稲荷大明神とありました。大蔵神社と稲荷神社が合祀されているようです。

 

冨士浅間神社と山王大明神

 

次に大蔵神社の別当であった安養寺に向かいました。安養寺ブログlink

 

大蔵神社  埼玉県比企郡嵐山町大蔵522 地図link

 

曹洞宗 輪禅寺 埼玉県小川町

元々は安養寺であったと伝えられています。

この地域の領主となった川窪(武田)新十郎信俊が、慶長13年(1608年)に伝州忠的を中興として迎え、曹洞宗寺院となりました。

信俊の父である武田兵庫頭信實(武田信玄の異母弟)追福のためにために、寺院名は武田信実の輪禅寺玉輪一機居士より一機山輪禅寺に改めました。

川窪(武田)家累代の菩提寺です。河窪も使用したようです。

信俊の子・信貞の代より川窪(河窪)から武田姓に復しています。

 

 

武田信俊の描いた鷹絵図が残されています。信俊の旧家臣である千野氏・五島氏が承応2年(1653年)に奉納されました。

 

山門より御本堂に向かいました。左右に地蔵菩薩が祀られています。

境内では上品なご婦人が掃除をしていました。おそらくここの奥様と思われます。

 

参道右側地蔵菩薩の隣は千体地蔵堂です。東日本大震災で亡くなられた方々の供養のために建てられたようです。

先ほどの奥様手作りの御尊像のようです。小さな陶器の地蔵菩薩が並んで祀られていました。

 

掃き清められながら草花も大事にして、気持ちの良い寺です。

 

新編武蔵野風土記によれば「三尊の彌陀」が御本尊とありましたが、釈迦如来が御本尊のようです。

安養寺の安養は、安養浄土(あんにょうじょうど)から採られています。阿弥陀如来の浄土の意味ですので、西方極楽浄土のことです。最初は阿弥陀さまが祀られていたのでしょう。

安養山・安養院・安養寺のつく寺の御本尊は、最初の御本尊が阿弥陀如来でも、後々に他の仏さまに代わった寺もあります。

 

道元禅師銅像の前にも、手作りと思われる小さな地蔵菩薩像などが祀られています。

その周りには小さな紫色の草花が咲いていました。

武田家の墓地に向かいます。

 

川窪(武田)家累代墓地

川窪家は元禄10年(1697年)に知行替えとなりましたが、それ以降の江戸末期までも菩提寺としています。

大名家並みの大きな墓石です。

 

 

墓地入口には川窪家が、地域のために尽くされたことを感謝して、記念碑が建てられていました。

 

※ある大名家の分家さんに話を聞いたことがあります。

「私たちも田舎の菩提寺檀家になれば、戒名の位は院殿大居士になります。だから他の寺の檀家となりました。」と話していました。

本家はもちろん末裔の方々が、いつまでも裕福とは言えないのです。

 

河窪信俊 ウィキペディアlink          川窪(武田)新十郎信俊 戦国Xファイル link        

河窪信実 ウィキペディアlink

 

輪禅寺 埼玉県比企郡小川町上横田1215 地図link

 

天台宗 小川大師 普光寺 埼玉県小川町

普光寺は小川厄除大師と言われ、薬師如来を御本尊とする天台宗寺院です。

正保二年(1645年)に開山されました。

 

元旦から7日まで新春大護摩供が勤修され、多くの方々が参拝に訪れるようです。

 

門前や参道には二十三夜供養塔や庚申塔などが並んでいます。

 

門の内側には罪や穢れをはらうための輪をくぐり境内に入ります。

 

御本尊薬師如来意外にも色々な御尊像が祀られていました。

御本堂の向かって左側に元三大師が祀られています。

比較的新しそうな七福神の石仏が、境内あちこちに祀られていました。赤い幟が目印です。

 

毎年1月3日採燈大護摩供が行われ、この台の上で修験者を先導に善男善女が火渡りを行います。

八王子市の高尾山火渡りとは規模が違いますが、宗旨が異なるためかホームページを見るとかぎり異なった印象を受けます。

 

徳川家康画像

慶安4年(1651年)に奉納されています。

 

東隣には八宮神社があります。かつては普光寺持ちでした。

領主の旗本高木甚左衛門正則が建立した毘沙門堂が前身と伝えられています。

 

小川厄除大師ホームページlink

普光寺  埼玉県比企郡小川町中爪1042  地図link

 

杉山六万坂の石仏群 埼玉県嵐山町

地蔵菩薩、馬頭観音、庚申塔など、15体の石仏と大乗妙典供養塔が集められていました。

地蔵菩薩が一番新しく、古い庚申塔は貞享2年(1685年)でした。

 

 

地蔵菩薩

 

馬頭観音

 

 

庚申塔

 

庚申塔

 

優れた彫刻の石仏群でした。

 

 更に100メートル東に向かうと、庚申塔と馬頭観音板碑が祀られています。

杉山は庚申信仰が盛んであったことが分かります。

 

杉山六万坂の石仏群  埼玉県比企郡嵐山町杉山 地図link

 

天台宗 積善寺 埼玉県嵐山町

積善寺は新編武蔵野風土記によると、祐源(?~天正元年1573年)により開山された天台宗寺院で、御本尊は阿弥陀如来です。

開基をより古い役小角とし、積善を開山とする伝承もあるようです。

杉山城跡の南側に位置しています。

 

杉山城は山内上杉氏が扇谷上杉氏に抵抗するために築かれた、かなりの規模の城跡です。杉山城link

15世紀末から16世紀初頭に近い年代の陶器や磁器の破片が発掘されました。

積善寺は杉山城で戦死された方々の供養ための寺だったのかも知れません。

 

裏山の城跡の一部だけを見て次の目的地に向かいました。

 

 

首なし地蔵です。

このような首の取れた、あるいはコンクリート製の頭部を付け足した地蔵菩薩石仏を色々な所で見ることが出来ます。

 

しかし、上の縁起のように敢えて首なしのままにして、「苦非(くび)なし地蔵」として信仰されているのを面白く思いました。

他の寺でも首なしのままで、面白い伝承を伝えている所もあったように記憶します。

 

庚申供養塔は正徳四年(1713年)の建立です。

 

寺にいたる道路脇には、庚申供養塔が4基祀られていました。

この地域には庚申供養塔を含む杉山六万坂の石仏群があります。ブログlink

 

積善寺  埼玉県比企郡嵐山町杉山600 地図link

 

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