妙見堂での祈願祭
毎年12月第一日曜日は妙見尊大祭を行っていましたが、残念ながら新型コロナの為に連続中止しています。
しかし、役員さんとともに朝9時より御祈願を行いました。
来年こそはと思いますが、檀家さんの話を聞くとコロナで大変だったとの話しが出てきます。
特にコロナ撲滅を意識して、お経を唱えました。
毎年12月第一日曜日は妙見尊大祭を行っていましたが、残念ながら新型コロナの為に連続中止しています。
しかし、役員さんとともに朝9時より御祈願を行いました。
来年こそはと思いますが、檀家さんの話を聞くとコロナで大変だったとの話しが出てきます。
特にコロナ撲滅を意識して、お経を唱えました。
妙見菩薩を調べる過程で、今から17年前頃にお参りに来ました。
以前と異なるのが、奉納旗が多く立てられていることです。
扁額の文字は、前に行った黒瀧山不動寺住職の筆でした。
不動寺の札も祀られています。
伊勢山妙見宮甘楽郡 群馬県甘楽郡下仁田町下仁田 地図リンク
三枚の板に仏さまのお顔が彫られています。
おそらく観音さまと思うのですが、明らかではありません。
三枚に分かれているのが分かると思います。
一枚が縦約50㎝の大きさです。
さて、どのようにお祀りするか、思案中です。
珍しいお釈迦様の板仏です。54体のお姿が彫られています。
おそらく黄檗宗寺院にあったのではと思います。
日本的な仏さまではなく、中国風です。
東大寺の銅製八画灯籠にある銅跋子を持った音声菩薩像の模刻です。
7年前にお迎えした板仏です。詳細は一切分かりません。
千葉県内の某寺院の妙見堂が、廃仏毀釈により神社となりました。その当時に流失した版木と思われます。
版木の下部に寺院名がありますが、ぼかしてあります。
童子形の妙見さまです。画像を反転させ、ネガにしました。
江戸期には、お姿が刷られ頒布されていたのでしょう。
現在の妙見神社は大事にされていないようです。山頂にあり、ここからは東京湾や三浦半島が遠望できます。
以前にも板絵としてご紹介した吉祥天です。
国宝の薬師寺吉祥天の写しです。薬師寺吉祥天Wikipedia link
板に描かれているのですが、印刷なのかも知れません。
剥がれた場所も、忠実に再現しています。
戦後に作られた京都科学標本の製品です。人体模型だけでなく、色々な仏像などが作られていました。
有名な仏像をモチーフにした作品が多いので、画像検索をしたのですが、似たような仏像は見当たりませんでした。その当時に作成された聖観音像か絵が元かもしれません。
道真公と牛の彫刻です。
飯能市内の神社にあったと伝えられています。おそらく合祀されて流出したのでしょう。野﨑直延作。
※追記 2020/08/11
隣の日高市には、板仏の地名があり、大きな板碑(板仏)が祀られています。
板仏 埼玉県日高市原宿103 地図
地図の板仏の交差点を西に向かうと、すぐ近くに大きな板仏(板碑)が祀られています。
円泉寺仏像リンク 白衣観音リンク 聖観音リンク 千手観音リンク
←犬山 寂光院 恵比須と弁財天のこけし 愛知県犬山市 施餓鬼塔婆の確認作業→
当寺の妙見さまは、霊符神と童子形の妙見菩薩像です。
関西には圧倒的な妙見信仰の能勢妙見山があり、能勢形のみが妙見菩薩と思っている人も多くいると思います。
近松門左衛門も熱心な信者でした。
関東では圧倒的に童子形が多く祀られています。
能勢形妙見菩薩像
能勢の紋が切り竹矢筈十字で、刀と剣印が横と縦で十字架をあらわしていると見れば、隠れキりスタンが能勢形妙見菩薩像を十字架として信仰したとする説があります。
この地を治めた戦国大名の高山右近は、熱心なキリスト教徒でしたので、間違いとは言えないのかも知れません。
各地の隠れキリシタンは妙見菩薩を天帝として祀ったようです。
能勢形妙見菩薩像
次は小さな妙見さまです。おそらく懐中仏でしょう。身につけて、お守りのようにしていてのだと思います。
能勢妙見懐中仏
わずか2㎝ほどの像です。残念ながら剣は折れて無くなっています。
3体とも小さな御尊像ですが、おそらく能勢妙見において信者さんに、お授けした仏像なのでしょう。現在これらの御尊像は、他宗旨の寺院に祀られています。
「妙見菩薩」とヤフオク!で検索すると古い像は、ほとんどが能勢形の像です。童子形はめったに出品されません。妙見菩薩の資料として、ヤフオク!で落札しました。
能勢形の妙見菩薩は、大将軍八神社の武装大将軍神像によく似ていることから、成り立ちに関連があると思われています。大将軍八神社のホームページより、他の方のブログなどの神像画像に剣の位置が異なるだけで、そっくりな像が紹介されています。
神社では大将軍神は北斗七星をあらわしていると説明されているようです。北斗七星=妙見菩薩=北極星との関連もあるわけです。
板に描かれた吉祥天です。
国宝の薬師寺吉祥天の写しです。薬師寺吉祥天Wikipedia link
マッタク同じではありませんが、剥がれた場所なども忠実に再現してあります。
描いたわけではありません。どのように印刷したのでしょうか。
奈良時代には妙見菩薩は、吉祥天と同じ姿とされていたようです。東大寺などの吉祥天も妙見菩薩だったかもしれません。
元羽黒山五重塔にあった懸仏の御尊像の内、妙見菩薩は三井寺の吉祥天そっくりだそうです。三井寺 吉祥天 link 円泉寺blog link
2011年、当寺のホームページが、突然上位に上がってきたことがありました。
いろいろ検索した結果、何と妙見さまのサイトが、「2ちゃんねる」にリンクされていたのです。何と4番目にリンクしてありました。2ちゃんねるlink
2ちゃくねるは、いかがわしいサイトと思っていましたので、ハッキリ言って驚きでした。
現在は「5ちゃんねる」となりましたが、今でも「2ちゃんねる 妙見菩薩」と検索するとで、古いスレッドが出てきます。
円泉寺を話題にするスレは、ほとんどありませんでしたが、2チャンネルの影響は大きかったと思います。
他のスレでも掲載されていることもありましたが、妙見さまほどではありませんでした。
2ちゃんねるさん、ありがとうございました。
2006年の写真です。随分前で申し訳ありません。
現在は鹿沼市になっています。
私がお世話になっている曹洞宗寺院の娘さんが、妙見寺御住職の奥様です。
そのお寺さんのご紹介で、妙見菩薩を拝ませていただくことになりました。当寺の妙見菩薩資料集です。link
歴史と格式のある寺院ですので、重みが違います。
妙見寺御住職と妙見堂です。御尊像は物騒ですので、他の場所に祀ってあります。
妙見菩薩の亀踏像です。
妙見尊星王
妙見菩薩像も拝ませていただきました。
ご尊像も撮して良いと言われましたが、申し訳ないので遠慮させていただき、亀踏の裏側だけとしました。
掲載致しませんが、御尊像写真は撮させていただきました。
寄進者が下総国結城本郷 品川次兵衛義□(?)。最後の文字が私には読めません。局とはないと思います。下総国結城本郷Wikipediaリンク
結城は現在の茨城県八千代町ですので、妙見信仰が盛んだったと思われます。
お寺も立派でしたが、手入れの行き届いた庭は見事でした。
現在は状況が変わっていると思います。ご了承ください。
追記 2021/03/20
2020年5月23日「木造妙見菩薩(ぼさつ)立像(武将形)」と「木造妙見菩薩倚像(いぞう)(童子形)」が市有形文化財に指定されました。
妙見寺 栃木県元上都賀郡粟野町口粟野3178 地図 現在は鹿沼市
本日は妙見尊大祭にあたり、10時から大護摩供が行われました。
大祭と言いながら僧侶は私だけです。
昨夜は9時より前夜祭、いったん役員さんは帰るのですが、今回は何人か残って、お籠もりをしたようです。
今日の8時に集まり大護摩供の準備を致しました。
今日が実質の本番です。9時に儀式が始まりますが、役員さん、信者さん、檀家さんを前にお話をしてから大護摩供に入りました。
毎年12月大日日曜日が祭礼です。今夜は8時頃まで行っています。
ぜひお参り下さい。
先代のご住職は日高市の霊巖寺に移られていますが、副住職が延命寺住職となりました。
なかなか立派な御住職です。奥様と共にお寺を維持しています。
境内には仏像や動物たちの石像がありました。以前来たときにはありませんでしたので、今の御住職のアイデアでしょう
入口左側には六地蔵様が祀られていました。
11月4日 柴燈大護摩供が境内で行われるようです。友人から地域の若手僧侶達は他宗旨の僧侶も含めて、熱心に柴燈大護摩供を行っていると聞きました。
御本尊様は鎌倉期のお不動様です。庭でもお不動様が迎えてくれました。
本堂前の犬は石像です。動きません。
西側は池になっていました。見事な鯉が泳いでいます。
以前はなかった永代供養塔です。五輪塔のかなり凝った意匠です。
これからの時代は、どこの寺でも必要ですね。
星宮神社の西側に御堂と墓地が見えました。お塔婆の文字からすると、延命寺の墓地のようです。
夏まつりのアトラクションに城西大学経営学部石井研究室ローカルヒーロー高麗戦士トライのユーチューブがありました。
真言宗智山派 延命寺 埼玉県入間郡毛呂山町大字下川原245 地図
延命寺の西側にあるのが星宮神社です。江戸時代は延命寺が別当を務める妙見社でした。
今でも「みょうけんさま」と言われているようです。
長い参道には、杉や檜が並んでいます。
以前、延命寺先代御住職が、あまりにも落ち葉が多いので、掃除をしていると話していました。
毎月1日が氏子による掃除が行われているようですが、さらにして欲しいと言っても無理なようです。すぐ隣の寺の境内や道路にも落ち葉がたくさん落ちるようです。
延命寺、星宮神社の前は、三大学の学生が川角駅から次々と登校していました。
円泉寺の檀家さんも、ここに通っていた人がいました。