平将門

阿蘇神社 東京都羽村市

平将門関連の神社として、2005年にも参拝しています。

推古天皇九年(601)創建され、平将門が承平3年(933)社殿を造営、天慶3年(940)には藤原秀郷が平将門の霊を鎮めるために修復したと伝えられています。

『新編武蔵風土記稿』によると平将門による勧請と書かれています。

天文5年(1536)には、平将門の子孫である三田氏によって修復されています。

 

 

 

かつては阿蘇大明神、長渕郷総社竜水山阿蘇宮でしたが、明治2年に阿蘇神社と改称されました。

健磐龍命、阿蘇都媛命、速瓶玉命、他九柱を祀っています。

 

緑の多い境内ですので影が多く、うまく写真が撮影できません。腕が悪いのですから仕方がないのです。

各写真をかなり補正しています。

 

車を駐めた場所からではなく、多摩川に沿って向かうのが本来の参道なのかも知れません。

しかし、駐車場はないと思います。

 

西側は多摩川の土手です。彼岸花の名所のようです。

前回来たときより、かなりの人数の方が歩いていました。車は駐車場に私の一台だけでしたので、歩くのを日課にしている方が多いのでしょう。

 

 

以下は2005年2月参拝の写真です。

 

 

社殿脇の椎の木は、都指定天然記念物になっています。

 

 

以前はこちら側から神社に向かいました。

 

 

阿蘇神社ホームページlink

阿蘇神社 東京都羽村市羽加美4丁目6−7 地図link

 

江戸の平将門を祀る神社

平将門を祀る神社仏閣は多々在りますが、今回は東京都でも江戸の地域のみに致しました。

 

神田神社(神田明神)

大手町の首塚近くにありましたが、徳川家康により江戸城の鬼門である現在地に遷座しています。

遷座後に江戸総鎮守となりました。

 

中心に祀られていたのが、明治になり境外社にされてしまいました。

昭和59年に本殿三ノ宮に祀られています。

氏子や信者は、あくまでも祭神が平将門としているようです。

私も当然と祭神は平将門と思っています。

 

 

境内には色々な社が祀られています。

拝殿東側には銭形平次の碑があります。

銭形平次役でよく知られる大川橋蔵さんのお顔が浮かびます。

 

 

13年前の2月3日の節分には、大勢の方々がお見えになっていました。

当然有名人も豆まきに、各地の神社仏閣に掛け持ちのようです。

 

神田神社  東京都千代田区外神田2丁目16−2  地図link

 

将門塚

平将門の首を祀った場所と伝えられています。

第二次世界大戦後に取り崩されることになっていましたが、災いが続き残されることになりました。

それまでは古墳を利用した塚でした。

 

 

8年前の写真です。

現在は景観が変わっているようです。

 

 

日輪寺と神田明神により護持されています。

 

将門塚  東京都千代田区大手町1丁目2−1外  地図link

 

筑土神社

廃仏毀釈前までは平将門公を祭神としていましたが、天津彦火邇々杵尊に代えさせられました。

将門公は相殿に格下げられています。

 

 

社伝を読むと何度か遷座しています。

現在の新宿区にある筑土八幡神社にも遷座していたことがあり、当時は筑土神社と称していました。

 

 

筑土神社  東京都千代田区九段北1丁目14−21  地図link

 

兜神社

明治11年、兜町に東京株式取引所が設けられるにあたり創建されました。

江戸期の創建とばかり思っていました。

鎧稲荷と兜塚が合祀され兜神社となったそうです。

 

 

しかし兜塚に藤原秀郷が将門の兜だけを埋めて塚をなしたとの伝承もあります。

 

 

兜神社  東京都中央区日本橋兜町1−12 地図link

 

鎧神社

日本武尊が甲冑などを埋め、さらに藤原秀郷が平将門の鎧を埋めた伝承があります。

 

 

 

かつては近くの円照寺が別当でした。

 

鎧神社   東京都新宿区北新宿3丁目16−18 地図link

 

 

※他にも祀る神社などがあるとされる所もあります。

稲荷鬼王神社

平将門の幼名「鬼王丸」からとったとの伝承があります。明治以降に将門伝承を消したのかも知れません。

 

 

古い映画のポスターコピーがたくさん貼られていました。

 

稲荷鬼王神社 東京都新宿区歌舞伎町2丁目17−5 地図

 

筑土八幡神社

嵯峨天皇のころ創建されたと伝えられる神社です。祭神は應神天皇・神功皇后・仲哀天皇を祀ります。

 

 

かつて筑土神社(千代田区九段北)が同じ敷地に並んでありました。

 

筑土八幡神社 東京都新宿区筑土八幡町2-1 地図link

妙見菩薩 平将門 資料集 リンク

 

 

国津神神社と山本坊墓 毛呂山町

国津神神社

廃仏毀釈によって日本全国の修験は廃止され、神社にしたり帰農した行者が多くいました。後に復活したのは、ごくわずかです。今でも復活することを考えている僧侶や神職もいます。

越生に山本坊を起こした本山派修験の別当・栄円の末裔が、後に西戸に移り熊野社を勧請しました。慶安2年(1649)には寺領47石あったそうです。

武蔵国の入間群・秩父郡・比企郡と常陸・越後の一部をの霞を支配したです。48ヶ寺の末寺がありました。

 

大正4年に熊野社から国津神神社と改めました。

国津神神社 毛呂山町西戸916

 

山本坊二十五世・徳栄法印が建立した芭蕉の句碑  「山さとは 万歳をそし うめの花」

 

山本坊墓

埼玉県毛呂山町西戸  地図

国津神神社の前を北向かい、突き当たりを左に折れます。

また突き当たりますので、今度は右折です。

 

右折後に階段のある場所の手前を右に折れて、約20メートルで歴代の墓に至ります。

 

山本坊は平将門の子孫と伝えられ、相馬の姓を名乗っていました。家紋も九曜星です。

 

以前、友人が山本坊は絶えてしまうと話していました。絶えてしまったのかも知れません。

お墓参りに来られているようには思えませんでした。

 

←智福寺の板碑と八坂神社の御まら様          毛呂氏菩提寺 妙玄寺 毛呂山町→

稲荷鬼王神社 新宿区歌舞伎町

以前お参りに来たのは15年以上前だったと思います。

歌舞伎町とは言いながら、かなり寂しげな神社でした。今は新大久保を中心とする韓国料理の店目当てで、多くの人が歩いています。

平将門の幼名「鬼王丸」からとったとの伝承があります。明治以降に将門公伝承を消したのかも知れません。

 

 

大勢の人がお祀り準備をしています。

以前来たときは、ほとんど人はいませんでした。

 

古い雑誌・赤い鳥の表紙がコピーされ掲示されています。

 

祭礼に使用される神輿です。

 

水琴窟が二ヶ所ありました。涼しげな音が手前の竹筒に水をかけるとします。

 

稲荷鬼王神社 東京都新宿区歌舞伎町2丁目17−5 地図

妙見菩薩 平将門 資料集 リンク

 

        鎧神社 新宿区北新宿       ショウリョウバッタ→  

鎧神社 新宿区北新宿

円照寺の後に鎧(よろい)神社に向かいました。

日本武尊が甲冑などを埋めた。あるいは平将門公が鎧を埋めたなどの伝承があります。

ここでは将門公は大事に祀られています。

近々祭礼があるようです。道路から神社に至る町内の通りに提灯が掛けてありました。

参道脇の天神社

 

稲荷神社

 

鎧神社  東京都新宿区北新宿3丁目16−18 鎧神社リンク       Wikipedia

妙見菩薩 平将門 資料集 リンク

 

←真言宗豊山派円照寺 新宿区北新宿         稲荷鬼王神社 新宿区歌舞伎町→

天台宗宝泉寺 東京都新宿区西早稲田

以前、反平将門公側の寺院として、お参りいました。

将門公だけでく、反将門公の資料も集めるためです。妙見菩薩 平将門資料集

かつて反平将門公側の藤原秀郷守り本尊の毘沙門天像が祀られていました。明治の初めに火災で焼失したと書かれています。

 

以前は祈願の旗などは記憶にありません。江戸寺代に富くじを最初に発行した寺のようです。

 

お寺の周りは、早稲田大学の施設が数多くあります。

以前、取引のある業者さんが、当寺のホームページにある石材店紹介のページを見て、連絡があったことがあります。

宝泉院の墓地に、かなり凝った墓石を建立するために、当寺にいる石材店設計が気に入り、工事を依頼したいようでした。

しかし、さらににこだわった作りでしたので、石屋さんがお断りしたことがあります。あまりにも長い石材を使用する設計のため、墓域の高低差と、搬入のための通路の狭さ、墓地に面した道より搬入しても、一番奥の方の工事は不可能でした。さらにとても安い見積もりが提示されていたようです。

 

大隈講堂は歩いてすぐです。工事中でした。

 

早稲田大学図書館には、私が調べている妙見菩薩関連の太上玄霊北斗本命延生真経 1 帖があるそうです。

 

俵薬師 阿弥陀如来板碑 石仏 埼玉県深谷市

平将門公関連の仏様(二代目)を祀る寺の住職としては、何故行ったと言われかねません。

反将門公関連も調べています。

佐藤家と千葉家が結婚するなとする人はいないでしょう。←意味分かりますか?

 

ここでは平将門公が謀反を起こしたとありますが、中央の歴史です。

 

阿弥陀如来線刻の板碑が祀られています。

 

ガラスが反射して中が写せません。

 

阿弥陀一尊板碑

板碑は観応元(1350)年と彫られているようです。

狭い境内ですが、沢山の石塔・石仏が祀られていました。

 

カーナビでは表示できませんでした。

字名は異なりますが、北側にあるグランドをめざし、ここに車を駐めました。一番の東側です。

表示は、まだ川本町のままですね。2006年に深谷市になっています。

止めた場所の道を隔てて南側が、俵薬師です。

 

平将門島広山討死の場 豊原国周の役者絵

豊原国周(天保6~明治33)は明治期の代表的役者絵の作者だそうです。
豊原国周   link   
 
イメージ 1
 
 
天慶3年(940)に島広山で討ち死にする前の場面です。
将門公の後ろに描かれているのは、影武者でしょうか。
 
 
 
 

明治23年版
平親王将門(市川左団次)  千種姫(尾上栄之助)  俵藤太秀郷(尾上菊五郎)  平貞盛(市川権十郎)

千種姫は知らない名前です。役者絵を集めて初めて知りました。
調べても分かりません。

「前太平記擬ノ玉殿(ぜんたいへいきまがいのぎょくでん )」でもいました。link 
 

高雲寺 平良文館跡 熊谷市村岡

今から15年ほど前、熊谷市教育委員会に伺い、千葉氏や相馬氏の先祖・平良文館跡の場所を教えていただきました。このあたりに平氏の屋敷跡があったと言われています。

良文の子の平忠頼・忠通が住んでいた。
彼らは平氏惣領家の平繁盛(平貞盛の弟)の使節が大般若経を比叡山に送ろうとしたさい、村岡郷で追い返した。
〔今昔物語の良文と箕田(みだ、鴻巣市)の源宛(あつる・渡辺綱の父)との記載や子孫の動向から、地元びいきもあり熊谷説を採りたい。)〕

高雲寺  埼玉県熊谷市村岡396 地図

 

妙見菩薩資料集の内「別冊 妙見菩薩 平将門関連」の一部 link

 

村岡集会所の案内板

一昨年?行った時の写真がパソコンが壊れたため、他に保存していた一部を除いて無くなっていました。

村岡集会所にもよれば良かったと、後悔しています。

 

河津桜が綺麗でした。

 

烏森神社参拝 東京都港区

新橋駅から別院の真福寺に向かう途中、烏森神社にお参りしました。

変わった形の鳥居です。

 

烏森稲荷ですから狛犬でなく普通は狐ですが、何かいわれがあるのかもしれません。

 

由来に書いてありますが、天慶の乱の戦勝祈願を藤和秀郷がここで行ったと伝えられています。

円泉寺境内の妙見菩薩(二代目)は、平将門関連ですから、お参りするのはおかしいと言われかねません。

智山派には成田山もあります。古い寺社は平定の祈願をしているところが多く、お参りできなくなりますので、ご勘弁ください。

 

 

愛宕から新橋駅に帰るサラリーマンが、大勢寄るのがこのあたりの飲み屋さんです。

私はお酒が飲めませんので、学生の頃から真福寺に寄った帰りは、美味しい物を買って帰りました。

 

順番は違いますが、新橋駅前のC11です。

機関車が走るのをほとんど見なくなりました。

記憶では10年以上前、秩父鉄道で偶然見たのが最後です。

 

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