平将門

「千葉妙見大縁起の世界―千葉妙見大縁起絵巻の全容―」 千葉市立郷土博物館

千葉市立郷土博物館、七天王塚、栄福寺、千葉神社に行ってきました。四回に分けて掲載いたします。
朝8時に出かけ、17時半の帰宅です。
 
まずは、千葉市立郷土博物館で開催された「千葉妙見大縁起の世界―千葉妙見大縁起絵巻の全容―」です。
JR本千葉駅より歩きました。
 
 
 

平成28年8月9日(火曜日)から平成28年年12月11日(日曜日)まで開催され、会期中展示替えが行われます。 企画展link

 
 
千葉市立郷土博物館
千葉市中央区亥鼻1-6-1 地図
 
 
亥鼻城址
 
千葉常胤の銅像
 
 
 
城跡に文化施設があり、城を模した館物が千葉市立郷土博物館になっています。
 
 
 
お城に入ると受付の先に大きな千葉妙見大縁起のパネルがあります。
 
 
 
上記は平将門、平良文の前に現れた七星山息災寺(現・天台宗妙見寺 高崎市引間)妙見菩薩。
妙見寺へは何度もお参りに行っています。近くには国分寺跡もありますので、今年中には、また訪れてみる予定です。地図
ちなみに高崎市新町にも日蓮宗妙見寺があります。
 
千葉妙見大縁起(栄福寺蔵)  link  より 
   上・下二巻の絵巻は、千葉氏が妙見尊の御加護によって数度に及ぶ合戦に勝利をおさめた様子を描いたものです。
 絵巻の 奥書(おくがき) から、享禄元年(1528)本庄伊豆守 胤村(たねむら) が 詞書(ことばがき) を作らせ、その後天文19年(1550)詞書と絵を合せて上・下二巻の絵巻にさせたと思われます。
(千葉市教育委員会『千葉市文化財マップ』より抜粋)

千葉神社の前身である 北斗山金剛授寺(ほくとざんこんごうじゅじ) ( 妙見寺(みょうけんじ) )の19世 光雅(こうが) が 寛文(かんぶん) 2年(1662)11月に書いた『 下総(しもうさ) 国千葉郷妙見寺大縁起』によると、この絵巻はもと妙見寺にあったが、光雅が住僧となった 寛永(かんえい) 19年(1642)10月にはすでに 栄福寺(えいふくじ) の所蔵に移っていたという。 
(千葉市『千葉市の散歩道』より抜粋)
 
別のlinkも参考になります。
 
縁起絵巻は千葉県指定有形文化財になっています。
 
企画展の入り口では千葉常胤の像が迎えてくれます。千葉常胤Wikipedia link
 
 
 
企画展の中は、いくつかに分かれており、時代ごとに分かりやすく解説されています。
千葉妙見大縁起は第一巻が展示されていました。部分だけです。
展示替えされていくようです。
①10月18日(火)より展示開始
②11月 1日 (火)場面替え
③11月15日(火)場面替え
④11月29日(火)場面替え
これらは撮影禁止でしたので、パンフレットの画像などを参照してください。
 
 
パンフレットの裏面一部分
 
撮影可の場所だけ撮してきました。
 
 
 
千葉氏の末裔が各地に移住すると、各地に妙見菩薩を祀りました。
北は青森県、南は鹿児島県まで祀られています。
 
 
 
展示パネルの説明が書かれています。31枚全部いただいてきました。
 
 
 
 
 
 
 
 
左が堀内神社に祀られていた妙見菩薩像(複製)と右、東保胤氏より寄贈された妙見菩薩像の複製。
 
神田明神の平将門と七人の影武者の掛け軸(複製)もありました。
 
 
 
 
平安以前の発掘物も展示されていました。
 
 
 
以前来たとき求めた「紙本著色  千葉妙見大縁起絵巻」(千葉市立郷土博物館刊)は、まだ在庫があるようです。
 
妙見菩薩に関しては、二階堂善弘氏(関西大学)の「妙見菩薩と真武信仰における文化交渉」PDFがためになります。link
 
日本全国の妙見菩薩・平将門関連資料集が私のHome pageにあります。
但し、専門家ではありませんので間違いも多いと思います。  link
 
郷土博物館を出ると、ちょうど昼頃です。
城址内すぐ近くにある「いのはな亭」で食事をしました。
 
 
 
 
 
うどんにしましたが、結構美味しいです。甘い物なども多く、私以外は女性ばかりでした。
水琴窟もありました。
 
次に近くの千葉大学医学部内と道路反対側にある七天王塚に向かいました。
七天王塚は平将門公の七人の影武者の墓とも伝えられています。
 

愛川町郷土資料館企画展「相模国八菅修験」- 神奈川県

先日のハ菅神社参拝の折、「ハ菅修験」展があることを知り出かけました。
   
 
 
車は神奈川県立あいかわ公園の駐車場に駐めます。
 
 
 
 
公園入口を通り、案内板に沿っていけば郷土資料館です。
 
 
 
正面が資料館です。
※橋が曲がって見えますが、パノラマ写真を撮影するとき、少し平行でなかったからです。
 
 
 
中に入るとステゴドン(アケボノゾウ)が迎えてくれます。
ここから先の展示室に入ると写真は撮れません。
 
 
 
ハ菅神社は廃仏毀釈前は、「ハ菅山八社権現」と言われ、光勝寺を中心とする50坊以上の寺院を擁する聖護院門跡の本山派修験の寺でした。
 
愛川町の指定文化財の内、なんと三分の一以上が、ハ菅神社関係だそうです。
この企画展では、現在まで伝えられる貴重な品々が、展示されています。
 
パンフレットにある役行者像はレプリカでしたが、常に資料館に展示されています。
今回は、昭和47年に発掘された八菅山経塚より出土した和鏡、壺、木造念持仏・愛染明王(本物)などが展示されています。
 
古文書に興味深い内容が記されているようです。
ハ菅の安達原姓の家は、上総介広常の末裔だそうです。前宮司が千葉姓、元安養院は相馬姓ですから、以前書いたように平将門公の子孫として繋がる伝承が残っていたのではないでしょうか。
 
「銅像聖観世音菩薩立像」は、八菅山を崇敬した鎌倉時代の武将、海老名季貞の守護仏で13~14世紀に作られたようです。
 
「金銅杵と金銅鈴」は峰入作法書に、五鈷、三鈷、独鈷杵は磨くべからざる事とあるそうです。
 
棟札は戦国時代に荒廃していたハ菅権現が、天文10年(1541)に再建されたことが記されています。
 
修験の峰入りのルートは、八菅山から丹沢山系、大山不動へ向かった様です。
 
正応4年(1291)の碑伝の複製は368㎝あり、峰入修行の証だそうです。
 
 
他にもいろいろな興味深い展示物がありました。
 
 
常設展では、中津層群の化石。中津川域の自然、地質、岩石、草花、イノシシなどの剥製、昆虫などが展示されています。
 
興味深い展示もありました。
 
三増合戦資料は、武田軍と北条軍との戦の陣立図があり、武田勢が勝ったそうです。
 
 
現在の三増地区
 
半原の宮大工は勝楽寺や龍福寺の山門を作りました。大山不動の宮殿の図も展示されています。
 
中津の座敷箒は神奈川では有名で、大塚地区は9割が携わっていたそうです。中津台地には、ホウキトウモロコシが散見されていました。
しかし、昭和40年代になると掃除機の普及で姿を消していったそうです。
 
糸の町として知られ、撚糸作業の機器や作業風景の写真が展示されています。
 
戦前は陸軍の飛行場もありました。
昭和19年(1940)から終戦まで「疾風(はやて)」の基地でした。
その後この場所は、工業団地に変わっていきました。
 
三増の獅子舞の様子も展示されています。
 
 
愛川町資料館
  神奈川県愛川町半原5287  地図
 

無量光寺 相模原市

かつて私は妙見菩薩を調べていた折りに、お参りに来たことがあります。
 
ここは踊り念仏で知られる時宗(じしゅう)の旧大本山であり、一遍(いっぺん)上人ゆかりの寺です。
 
 
無量光寺本堂
 
一遍上人が23歳の弘長元年(1261)に諸国遊行の途中、草庵(現在の瑠璃光寺)に宿をとり念仏を唱えていると、深夜に亀に乗った 妙見菩薩が示現しました。
翌朝、相模川の対岸の丘に、妙見菩薩の小さな祠を見つけたとつたえられています。
ここを「金光寺」と名付けました。
 
嘉元元年(1303)、他阿真教(たあしんきょう)上人が、ここに無量光寺を建立したのだそうです。
他阿上人は都内の平将門首塚の伝承では、平将門の祟りを収め、神田明神に祀ったと伝えられています。
 
しかし、私は平将門公が荒ぶれた怨霊だったはずがないと思っています。
 

一遍上人像

 
山門
 
緑の多い境内
 
 
徳川家康は松平を名乗っていた頃は、代々時宗の信徒だったようです。
後に浄土宗に変えたようです。
 
そのために浄土宗以上に勢力があった時宗は、末寺が次々に浄土宗に変わっていったと聞いたことがあります。
無量光寺の何代か前のご住職は、浄土宗の出身でした。
 
 
かつてここまで来たときは、二時間ぐらいかかっていましたが、圏央道ができて近くなりました。「相模原愛川」ICからすぐです。
 
 
さらに脇にバイパスが通っており、ICから一直線でこれます。地図
電車で来る場合も相模線「原当麻」から1㎞ほどです。
 

ハ菅神社と「相模国ハ菅修験」展 神奈川県愛川町

十年ぶりぐらいにハ菅(はすげ)神社にお参りに行きました。
神奈川県愛甲郡愛川町八菅山139
 
 
 
今は圏央道がありますので、一時間ぐらいで到着です。
 
廃仏毀釈前は、「ハ菅山八社権現」と言われ、聖護院末の修験の寺でした。
 
和銅2年、行基菩薩が七社権現の寺を建立したと伝えられています。
後に大宝8年、役小角が訪れハ菅山として名付けられました。
別当光勝寺他、五十数坊があったと伝えられています。
 
現在は3月28日に火渡り祭が行われています。
 
 
光勝寺総門跡
 
ここからしばらく行くとハ菅神社に到着です。
 
 
 
 
かなりの急階段でした。帰りは女坂から降りました。
 
八菅神社覆殿
 
 
友人は革靴で登りました。滑るから注意しましょう。
 
九曜紋
 
 
 
宝物館
 
前回来る前に調べた時は、メモに
現宮司は千葉姓、他に修験の元安養院は相馬姓で将門を祀っていた。妙見様との関連も伝えられている。八菅修験の本拠地。
 
この時いた受付のおばちゃんは、千葉さん(宮城県出身、たまたま宮司さんと同姓だった)。
 
現在の宮司は古賀氏だそうです。
 
今回訪れたとき、宝物館に人がいたので、少しお話を聞きました。
愛川町資料館の学芸員のようでした。
 
妙見菩薩と平将門のことは知らないとのことでした。
今回実際調べても関連はどこからも出てきません。
千葉氏と相馬氏ですから妙見菩薩、平将門との関連はあると思うのですが。
ハ菅権現の紋も九曜星で妙見様、千葉氏、相馬氏。多分関連がありますね。
 
八菅山を超えた西側は、
日吉神社(妙見社) 厚木市下荻野子合の妙見社元別当・妙見寺(廃寺・曹)
この近在には、日吉神社が何社かある。
各地の日吉神社と妙見菩薩の関係も少なからずあるようです。
 
※毛利元就の祖は大江広元。源頼朝から相模国毛利庄屋(現在の厚木市)を領地としてもらった。
 
鐘鋳神社(元妙見社) 神奈川県厚木市中荻野
「銅座金山荻野の名所銅座コネーカ金掘りに」といわれ、銅鉱があった。鋳物師が住んだらしい。
 
妙見様は鉱山とも深い関連があります。ハ菅神社とも何らかの関係もあったかもしれません。
 
 
学芸員さんから今月10日より「相模国ハ菅修験」展が「愛川町資料館」 であると教えていただきました。
 
愛川町資料館「相模国ハ菅修験」展 link     資料館link
 
  神奈川県愛川町半原5287  地図
  「県立あいかわ公園駐車場」から歩くようです。
 
 
 
興味のある方は、ぜひ行ってみてください。
宮ヶ瀬湖も近そうです。   link        link2
郷土資料館入館  無料
県立あいかわ公園駐車場  普通車500円   愛川町半原5423
 
私も後日行ってみます。
 
 
追記  「ハ菅修験」展に行ってきました。link
 
追記 2016/11/20
ハ菅神社はやはり妙見菩薩、平将門公の伝承があったようです。
※青木祐子先生の「榛名山東南麓の千葉氏伝承」を参照してください。  link
※村上春樹氏(国文学者)の「将門伝説」(吸古書院)に書かれています。
 
 
 
ハ菅修験の安養院は、相馬姓を名乗り、平将門を高祖として仰ぎ、将門像を祀っていた。明治以降は外部に秘していました。
現在は他所に転出し、そちらに保管されています。
 
 

松下社と末社・蘇民祠-伊勢市二見町

今回は私を含め6人での伊勢神宮を含む寺社の旅となりました。

以前伊勢神宮にお参りしたおり、「蘇民将来子孫之家門(そみんしょうらいしそんのもん)」のお札を付けた注連縄が、お店の軒下に一年中吊してあることを知りました。

伊勢の将門ブログ   

 

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このお札を配布する松下社の蘇民祠にどうしても行きたくなり、急遽行程に入れていただきました。

 

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2016829172042.jpg蘇民祠 祭神は蘇民将来
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松下社  祭神は須佐之男命・菅原道真・不詳一座

 

松下社の祭神は牛頭天王でした。その脇に関連する蘇民将来を祀ったのが蘇民祠です。

午頭天皇Wikipedia   

かつては加木牛頭天王様と呼ばれ、明治になり廃仏毀釈のため、同神と言われる素戔嗚尊に代えられています。日本中の牛頭天王をまつる社・天王社・祇園社は八坂神社や地元の名を付けた神社に名称を代えられました。

今でも八坂神社の祭礼を天王様(てんのうさま)と言っている所が多いと思います。

午頭天王と素戔嗚尊に関連する蘇民を祀る社が神仏分離により影響を受けても、蘇民将来子孫之家門のお札が残っただけでなく、伊勢や鳥羽の地区によく根付いていると思います。

蘇民将来Wikipedia   

ただ、このお札が将門(まさかど・平将門)とも読めるため、「笑門」に代えた家もありました。

 

お伊勢様に関連する「伊雑宮(いざわのみや)」の周りは笑門がほとんどでした。

 

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松下社は緑が多く、蘇民の森として知られています。

境内には根元に空洞のある樹齢約1800年大クスがあります。

 

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楠の木

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大きな空洞の根元

 松下社の東側には、二見しょうぶロマンの森があり、初夏の頃には約4万株100品種以上の花が咲き揃うようです。

 

松下社のすぐ隣は「民話の駅 蘇民」がありますので、ここを目指して行かれるのが良いと思います。

 

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松下社駐車場より撮した民話の駅・蘇民

 

民話の駅 蘇民」  三重県伊勢市二見町松下1335 HP

 

蘇民将来の注連縄は、10月中旬ごろから通販でも求められます。「蘇民将来注連縄 通販」検索してみてください。

1,000円から6,500円ぐらいと差があります。高価な注連縄ほど豪華なようです。

 

飯能市の平将門伝説

地元飯能市の将門伝説の所は、良く出かける地でありながら、書く機会がありませんでした。

たまたま来られた平将門公信者の方と三ヶ所お参りしてまいりました。

 

天覧山
平将門がここの山頂に布陣して、平秀郷軍と戦いました。そのおり、七日七夜、血の雨が降り続いたと伝えられています。ちなみに川上監督・長嶋監督は、ここの檀家さんです。

 

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天覧山 能仁寺   飯能市飯能 1329

 

飯能市矢颪・征矢(そや)町・矢の根(川寺内)
平将門が矢颪の山より藤原秀郷の軍に向けて矢を放ち、一本はここに落ち「征矢神社」として祀られました。一本は川寺(矢の根)に落ち、祀ったのが「射宮祠」(大光寺内・川寺395-11)と伝えられているそうです。

 

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征矢神社  飯能市征矢町26-1

 

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浄心寺  飯能市矢颪222

 

飯能市平松
妙見堂の妙見菩薩は、将門公配下の家臣が当地に隠れ住み、代々自宅に祀っていましたが、今から180年前にこの場所に祀りました。ご本尊「妙見菩薩」(みょうけんぼさつ)は二代目になっています。

 

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円泉寺妙見堂(当寺)  飯能市平松376

 

当寺に妙見菩薩、平将門公のことを聞きに来られる方が、かなりおります。但し、私は学者でも郷土史家でもありません。専門家と思ってこられると、ガッカリすると思います。

特に土日に来られる方が多いのですが、住職不在になることや、葬儀、法事などで対応できないことが多々あります。できる限りお電話にてご連絡ください。

 

円泉寺(えんせんじ)  電話042-973-5716

妙見菩薩・平将門資料集 リンク     

 

平将門 ブログ     

 

東京の平将門を祀る寺社    リンク       

 

   東京の反平将門系寺社  ブログ       

 

国王神社   茨城県坂東市        

 

   

渡辺綱の生地 埼玉県鴻巣市箕田(こうのすしみだ)

以前この地を訪れて、たまたま氷川八幡神社神社に参拝致しました。そのおり渡辺綱(わたなべのつな)(源綱・953-1025)がこの近くで生まれたことを知りました。豪傑として知られ、頼光四天王の筆頭として知られています。

謡曲、歌舞伎、浮世絵で広く知られました。

渡辺綱 一條戻橋の場 歌舞伎座 明治23年

東京都港区三田の説もありますが、調べてみると平良文(たいらのよしぶみ)と 綱の父・源宛(みなもとのあつる・933-953)との関係からも、ここに間違いないと思います。

京都か大阪で生まれたと思っている人も多いようです。私もかつてはそう思っていました。

 

源宛は源経基(みなもとのつねもと 未詳-961)に仕えていましが、わずか21歳でなくなりました。幼少だった綱は、摂津国西成郡渡辺(現大阪府大阪市中央区)に移り住み、叔母に養われました。ここの姓を名乗り渡辺姓の祖となりました。源頼光の四天王として知られています。ただし、坂田金時(足柄山の金多郎)が一番知られているかもしれません。

日本全国で6番目の姓ですが、綱系の子孫の渡辺姓が一番多くいます。  渡辺氏Wikipedia

渡辺の紋は、渡辺星(三つ星に一文字)がよく知られています。上の星はオリオン座の三星で中国における将軍星、一は武運長久や無敵を意味するそうです。

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渡辺綱生地伝説 港区三田ブログ   渡辺綱Wikipedia

 

源宛Wikipedia  源経基Wikipedia  平良文Wikipedia

 

氷川八幡神社、宝持寺の北側当たりから、満願寺と氷川神社にある箕田2号墳南側付近が発掘調査から箕田源氏の館跡と推定されているそうですす。伝箕田氏館(久右衛門遺跡・鴻巣市箕田)。 

 

満願寺       鴻巣市箕田1345  地図

  源経基、あるいは源頼義が創建したと伝えられています。源宛の館がこの南にあったと言われています。 源頼義Wikipedia

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ここの南側が箕田源氏の館跡と考えられています。

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お寺の東にある大御堂は、源経基が阿弥陀三尊を安置する場所を決めるために放った矢が落ちたところと伝えられています。

 ここの北側近くに「武蔵水路」があります。以前は漏水や地版沈下の心配があったようですが、味気ないようでも安心が一番です。

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氷川神社     鴻巣市箕田1260  地図  お隣の家が表示されます。 

  箕田2号墳の上に小さな社があり、別名・三氏塚とも言います。源任と妻子の墓とする古記述があるそうですが、時代が合わないようです。

     満願寺の東脇を南に行くと、すぐの場所にあります。かつては多くの古墳群があったようです。 遺跡マップ

2016526202123.jpgもっと大きな神社と思っていました。でも趣があります。
2016526202239.jpg箕田2号墳

 

氷川八幡神社 鴻巣市箕田2041 地図

  源宛(綱の父)が勧請した八幡宮と源経基(頼朝、義経などの先祖)が勧請した氷川社を合祀した神社です。

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ここの北側が綱の生まれた屋敷跡らしい。

2016526193250.jpg箕田碑には渡辺綱辞世の句や芭蕉・鳥酔の句が彫られています。

鳥居脇の通りに面した場所には、箕田源氏と氷川神社に関する分かりやすい解説版があります。

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宝持寺     鴻巣市箕田2034  地図             

  渡辺綱が祖父・源仕(みなもとのつこう)と父・源宛の菩提を弔う為に創建したと伝えられています。

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寺宝に渡辺綱が鬼を退治した刀があります。

2016526191819.jpg全国渡辺(部)会・嵯峨源氏顕彰会による顕彰碑。左脇には嵯峨天皇から綱などの系譜が彫られています。いけばな「創美流」の家元さんが全国渡辺会事務局長のようです。 創美流リンク
 

 

箕田観音  鴻巣市箕田3755    地図   箕田自治会館が同じ敷地にあります。

   渡辺綱の守り本尊を祀っていたと伝えらてれます。

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箕田観音前バス停が目印です。

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お寺の紋は渡辺の紋でした。

 

伝源経基屋敷跡    鴻巣市大間(埼玉県立上尾高校のすぐ南側)   伝源経基館跡Wikipediaリンク

源経基は、足利氏、新田氏、武田氏、源頼朝・義経など名門清和源氏の先祖です。ただし、武将としては尊敬できる人物ではありません。権威を笠に着た卑小な役人のイメージがあります。

綱が仕えた源頼光の祖父に当たります。綱は頼光四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)と言われました。。
ここでの縁があり、頼光に仕えることになったのでしょう。

 

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周りは土塁に囲まれています。

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北側が鴻巣高校。

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六尊王経基城址の石碑

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地主が市に寄贈したのだそうです。なかなか出来ることではありません。

 

源経基と武蔵武芝の争いに平将門が間に入り、天慶の乱(天慶2年939)の遠因となっています。 綱の父・源宛はまだ幼少でしたので、この戦には参戦していません。祖父の源仕(みなもとのつこう)は可能性があります。

天慶の乱以降に源仕・宛が経基に従い他の国にも行ったのかも不明です。

この乱が無ければ、源氏も平家(平清盛など)も後世歴史の表に出なかったかもしれません。室町幕府、鎌倉幕府は無かったでしょう。

 

※鴻巣市は武蔵(无邪志)国造の笠原直使主、清和源氏の祖先・源経基、全国の渡辺姓の大本・渡辺綱など超大物がいた土地です。地元の幾人かと話をしたのですが、このことを全然知らない人ばかりでした。私もほとんど知らないことばかりでした。

さらに鴻巣市に国府が置かれ、日本一の古墳群である生出塚古墳群(おいねづかこふんぐん)、東日本最大級の埴輪生産遺跡・生出塚埴輪窯跡(おいねづかはにわかまあと)があります。

人形の町鴻巣として、少しは知られていますが、もっと地元や他の地区の方々に知ってもらいたいですね。

 

埼玉県幸手市の将門の首塚と平将門関連寺社など

幸手市近辺には平将門公関連、あるいは反将門公関連の寺社があります。

併せて近在の気になる寺院も行って来ました。

 

将門の首塚-浄土真宗東本願寺派系単立 通光山浄誓寺  幸手市神明内1469

 

ここは相馬小次郎さんの「将門ブログ」で始めてし知りました。将門公の記事がふんだんに掲載されています。

リンク

大変な労力ですね。 しばらくぶりに覗いてみると、さらに充実していました。

 

ここと次の宝聖寺は二度目の訪問です。

ここの首塚については、藤原秀郷と平貞盛の連合軍に敗れ、下総国猿島郡で討たれた将門公の首を愛馬が口で咥えてここに運び、配下の武将が納めたという説と、この地で討ち死にしたため、ここに首を納めたとの、二つの説があるようです。

江戸初期までは幸手は下総国葛飾郡に所属していました。将門公関連の地域に接していたわけです。

浄誓寺の案内板には、この地で討ち死にしたとあります。

ちなみに

  1. 東京都大手町の首塚は、京都から飛んできて落ちたことになっています。
  2. 岐阜県大垣市の御首(みくび)神社は美濃国南宮大社の隼人が、飛ぶ首を矢で射落とした所だそうです。
  3. 静岡県掛川市十九首の十九首塚(じゅうくしょづか)は、将門と家臣合の19人の首塚と伝えられています。

 

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首塚の五輪塔

 

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将門の首塚

 

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浄誓寺山門

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首塚は本堂の裏にあります。

 

真言宗豊山派 大鱗山宝聖寺   幸手市平須賀2-457

 

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この宝聖寺はかなり格式が高く、江戸時代は十三石を賜っていたそうです。

 

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山門前右手にある六地蔵さん。

安永7年

 

将門降伏に用いたという松虫鈴(銅鈴)と藤原秀郷が将門討伐を祈願して奉納した不動明王の干支軍配団扇が寺宝になっています。

 

八幡神社と木立の地

 

八幡神社(幸手市木立)は将門公と戦った藤原秀郷が対陣した場所。木立の地名は将門公の子孫の公達(きんだち)が住み着いたで、昔は公達村と云われたとのこと。

 

浄土宗  聖福寺  幸手市北1-9-27

 

ここからは将門公とは関係なくなります。

ここは幸手宿にあり、日光東照宮へ行く徳川家光や天皇の代理で参拝した例幣使(れいへいし)の休憩所となっていました。大変格式のあるお寺です。

 

2016419231311.jpg勅使門(市指定有形文化財)

 

ここの境内は幼稚園になっており、中には入れませんでした。元気なお子様の声が響いています。

 

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参道入り口には、芭蕉と曽良の句碑があります。

 

幸手を行ば栗橋の関  芭蕉

松風をはさみ揃ゆる寺の門  曽良

 

真言宗豊山派 龍燈山永福寺  北葛飾郡杉戸町下高野 396

 

幸手のお隣にある施餓鬼寺として知られるお寺です。関東三大施餓鬼「どしょう施餓鬼」の一つだそうです。毎年8月22日・23日の2日間行われます。

儀式に出仕する僧侶の数も多く、多くの檀信徒の参列する大きな法要がいとなわれます。

永福寺 リンク

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閻魔堂の閻魔様と脱衣婆

 

永福寺は杉戸七福神の寿老人の札所でした。

色紙を求めると本堂前においてある御朱印のスタンプは各自押すようになっているようです。

 

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寿老人像

 

全くの番外ニュース

 

幸手市の宝聖寺近くの旧幸手高校の近くを通ると、送電線で8人の人が作業をしているのがみえました。

 

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これでは分からないでしょう。

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拡大してみると作業員です。

 すごいですね。何を行っているかは分かりませんが、初めて見る光景です。

圏央道の幸手IC入口からも見えました。

 

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圏央道の幸手IC入口

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ちなみに幸手高校は幸手商業高等学校と再編統合し、旧幸手商業高等学校の所在地で埼玉県立幸手桜高等学校として開校しまた。

幸手市で日本保健医療大学を運営する学校法人共済学園が跡地を購入したようです。

懐かしい学校がなくなるのはさみしいですね。少子化のため日本全国で、このようなことが起きています。

 

かつて一自治体に高校が一校は欲しいとの思いがあったことをよく耳にしたことがあります。人口の少ない、ここより通学に不便な地域に、ずいぶんできたなあと思ったことがありました。

 

全くの番外ニュース②

 

今回各お寺に参拝して気がついたのは、中には入れなかった聖福寺を別として、他の三ヶ寺が永代供養の納骨施設があることでした。

5年前にはほとんどのお寺に無かったと思います。浄誓寺、宝聖寺に来たのは二度目ですが、かつてはありませんでした。

 

当円泉寺は檀家さんが三件絶えたことと、新たに絶える家が何軒もあり無理して建てた訳です。

他の寺の御住職に聞いても似たようなことを言い、いずれ建設しようと思っているようです。

 

さて、三ヶ寺の施設をご紹介します。

 

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浄誓寺

 

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永福寺

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宝聖寺

 どうでも良いことだったかもしれませんが、時代の移り変わりを感じる建設物です。

少子化はいくつもの学校が無くなり、永代供養の施設が増える原因の一つです。

 

三ヶ寺とも参道や本堂脇にあり、お参りしやすくなっています。お墓の中にある施設もありますが、誰にでも手を合わせていただける場所がいいですね。

 

関宿城博物館 関宿城跡-千葉県野田市 & 移築遺構

千葉県立関宿城博物館

お墓参りのついでに関宿城博物館と幸手市の平将門関連のお寺などを見学してきました。今回も運転はAさんです。

圏央道が「境古河」まで開通しましたので、気軽に行けるようになりました。飯能市から菖蒲PAに寄っても一時間かかりませんでした。以前来たときは二時間以上かかっていました。

ちなみに行きも帰りも自衛隊の車両がいっぱい走っていました。PAでは若い隊員がたくさんいました。これからの大変な任務に頭が下がります。

 

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千葉県立関宿城博物館

 

実際のお城の姿ではありません。城跡もここの南方の少し離れた広い田んぼの部分だったようです。

 

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博物館入り口

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かなり広い敷地です。

 内部は写真がだめでしたので詳しく説明できませんが、関宿城の歴史、関宿の水運、繁栄する様子、たびたび決壊する江戸川の被害と対策などが分かりやすく展示されています。

江戸まで利根川や江戸川をたくさんの舟がお米、醤油、みりん、紬など積んで行き交い、水運の要として、関宿が重要な役割を果たしていました。

 

以前ブログに書きましたが、河川決壊のたびにコレラなどが蔓延し、医療による対策以外にもいろいろな神仏に頼りました。

その中で知られていない摩多利神(またりじん)が野田市に何カ所か祀られています。  摩多利神ブログ リンク

 

敷地の南側には川を浚渫(しゅんせつ)した器機が展示されています。

 

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駐車場南側

 

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水路浚渫機

水路だけでなく陸上も走れます。

201641918513.jpg浚渫船「山王丸」

江戸川流頭部中之島公園

行きませんでしたが、対岸の茨城県五霞町にあり、博物館から橋で渡り約2分で行けます。

 

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案内板  江戸川流頭部中之島公園リンク

 

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橋を渡って2分

2016419182725.JPG奥の方です。

洪水を避けるため設置された「関宿水閘門」や日本一大きな「コブシの木」などがあり、散策に便利なように整備されているそうです。博物館の四階(天守)から遠望できます。

 

関宿城跡

 

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下の図を見ると一部が土手や河川敷に含まれているのが分かります。

 

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三の丸の角には牛さんがいました。

 

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関宿城跡の公園

 

2016419191721.jpgほとんどが田圃です。
201641919191.jpg公園からはかなり離れて博物館がみえます。

 

大政奉還後、お城は取り壊され、堤防工事と洪水とのためもあるのでしょう、遺構もほとんど残されていませんでした。次にあげる移築された建物だけのようです。

 

移築された建築物

本丸御殿

実相寺客殿  野田市関宿台町2140

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明治4年(1871年)に本丸新御殿の一部を移築されました。

歴代家老職や久世家家臣の墓、終戦時の内閣総理大臣鈴木貫太郎の墓があります。実相寺は久世家歴代の藩主の菩提寺でしたたが、お墓は現在は本妙寺(東京都豊島区巣鴨5丁目35−6)に移されています。

牡丹や藤が、あと少しで見盛りです。

埋門

民家 野田市東 高野94

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明治8年(1875年)に競争入札により小林家に移築されました。

誰でも外から見学が出来ます。

見学者用駐車場が門の西側にありますが、カーナビでは東側に示されることもありますので、西側に行くようにして下さい。

 城門(薬医門)

逆井城公園  茨城県猿島郡猿島町逆井1262   リンク

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明治8年競争入札で猿島町の鶴見家に移築され、後にここに移築されました。

復元された戦国時代の砦、移築された主殿や観音堂も見所です。広い敷地には土塁・空堀が残されており、良く整備されています。桜やツツジがたくさん植えられています。

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逆井城公園

大手門

とんかつ合掌   栃木県下野市下石橋134-1

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幕府の命により戦争資金徴達の為に武蔵鷲宮の資産家に売却し、解体して船で運ばれ移築されまし。

昭和53年に移築再建されました。

お店の隣にあり、良く整備されています。前はお店の駐車場にもなっています。

丁度昼時でしたが満席で順番待ちでした。

201642219252.jpgとんかつ合掌

 


幸手市は次回に致します。

 

伊勢の将門 蘇民将来子孫門しめ縄-独特な注連縄です

平将門が伊勢にいたわけではありません。

伊勢のお詣りの時、お店の入り口には、正月でもないのにしめ縄が掛かっているのに気がついた方も多いと思います。伊勢志摩では一年中掛けたままなのだそうです。

中央に「蘇民将来子孫家門」の木札が墨書きしてあります。蘇民来子孫家の文字がの間にあります。

 

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蘇民将来子孫の家の意味は、スサノオノミコト(牛頭天王)に由来します。詳細はいろいろなサイトに出でいますので、参照して下さい。

発祥の地-蘇民の杜-松下社

蘇民将来 Wikipedia       注連縄  リンク

通販もあるようですね。

 

平将門に通じると「笑門」としたしめ縄もあります。笑う門には福来たるですね。

 

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いくつかのしめ縄を掲載します。

 

201646215335.jpg千客万来もあります。
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20164622015.jpgお多福もありました。
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赤福では蘇民将来子孫家門でした。

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虎屋は千客万来でした。

 

「蘇民将来子孫家門」が多いようです。

 

伊勢志摩で見られる注連縄は、伊勢の西郊・玉置町で造られています。 PDFリンク

 

場所は変わりますが、京都にはいろいろな注連縄があるようですが、祇園当たりの民家やお茶屋さんでも伊勢に似た「笑門」と書かれた注連縄が一年中飾ったままだそうです。

近くの八坂神社は元々は祇園社ですが、祭神はスサノオノミコトでした。伊勢志摩と同じような由来があるのですね。

 

さて、どうして注連縄と書くのでしょう。検索で語源を調べると色々出てきますが、「おしえて!goo」の答えが一番気に入っています。 

おしえて!goo  リンク

さらにここからリンクされてある総務省の「官報資料集」最後に言葉の履歴書「しめ飾り」があります。開いたら一番最後を読んでください。なぜ官報資料集にと思いましたが、何かと堅苦しい資料集にこのような試みはいいですね。

官報資料集  リンク

 

私が調べていた妙見菩薩シリーズの内「平将門」PDFをリンクします。興味がある方は見て下さい。  リンク

 

追記 2016/08/29

松下社と末社・蘇民社-伊勢市二見町 ブログ

 

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