摩多利神/matarijinー三面大黒天との関連

摩多利神・麻多利神・摩怛利神・摩怛哩神
またりじん・またりしん
 
聞いたことが無かった神様であるか、仏様であるか分からない信仰があったことを知り調べてみました。
関東では利根川沿いに多く祀られています。
 
中部北陸地方の妙見菩薩 摩多羅神 摩多利神 の最後に画像付きで掲載しています。
 
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前橋市  金剛寺
摩多利神(忿怒相の三面大黒天)
 
■摩怛哩神  (密教辞典より)
    摩怛哩または忙怛哩とも書く。孔雀経に一個の夜叉神として摩怛哩夜叉住於施欲国と説けるもの、これ摩怛哩神の起源なるべし。而も梵語の摩怛哩は母の義にして七母女天等をまた摩怛哩と称す。七巻理趣経云、於其中間 書摩賀哥羅(まはーかーら 大黒)主 如作舞勢於其像外四方四隅 書八摩怛哩と。而して大黒天は七(又は八)母天女の首領なるが故に、忿怒相の大黒天を摩怛利神と称するに至る。叉疫病除滅のために修する却溫神呪経法に於ては十一面観世音を本尊とし、或いは、此摩怛哩神を本尊として、大日経真言蔵品に説ける炤摩七母の真言を用ふ。是れ却経に、有七鬼神 常吐毒気以害萬姓 と説ける夢多難等の七鬼を、大日経に所謂炤摩の七母に結び付けたるに由る。大疏五には炤摩七母を七鬼と釋すれども、嬌末離等の七天女にして却溫経の七鬼と同じからず。摩怛哩神を以て疫病消除の神とすることは、元来此神は疫病を作す神なるが故に、其の害を蒙らざらんが爲に供養するなり。大日経三云、摩怛哩神眞言 能作衆生疾疫災癘 と。同疏十一云 叉有忙怛哩天 自有眞言能爲一切人作大疾疫 と。叉忿怒大黒天は七母女天を率ゐ、暗陀迦と称する阿修羅と戦いて之を滅ぼしたりとの説話に由来せるか。(大日経疏・小折紙等)
■摩怛哩神は「閻魔大王の姉妹で、梵語では『七母神』の意味」
■梵語で摩怛哩とは母を意味する。
■摩怛利神は大黒天、七母天、茶吉尼天、聖天、妙見菩薩と習合。
■七母天(しちもてん)
    別名、摩怛利神(まだりしん)。疫病をもたらす鬼たちで、即ち、夢多難鬼(むたなんき)、阿那鬼(あきゃなき)、阿尼鬼(あきゃにき)、阿毘羅鬼(あびらき)、尼尸鬼(にきゃしき)、波羅尼鬼(はらにき)、波提梨鬼(はだいりき)の七鬼のこと。泉獺の神々の辞典より
※七鬼神は劫温黄神呪経にあるが、摩多利神はでてこない。
■疫病退散の神(伝染病を防ぐ神)、仏教から摩軻迦羅(まかかーら:大黒天)を迎えて祀った神。
■摩多羅神は、北斗七星の輔星(アルコル)。洞明星、死兆星と言う呼び名もある。 摩多羅神と御尊像を祀る寺社 リンク
■お寺に祀られる例は少ないが、調べた限りでは真言宗が多い。真言宗では三面大黒天は忿怒相。胎蔵界曼陀 羅の大黒天。
■天台宗では三面大黒天は大黒天、弁財天、毘沙門天の合体形だが、天台宗の摩多利天法本尊は胎蔵曼荼羅外 金剛部の三面六臂の大黒天(忿怒相)。
■真如院覚深の摩多羅神考に「」とある。
■摩多羅神と大黒天が同体視されるようになり、近世になり疫病や災厄除けの神として、民間の信仰を集めた。
   ※摩多羅神、摩怛利神、摩多利神とは?。大国主命、憤怒の形相の三面六臂の大黒天、七母天、妙見菩薩との関連は?。わからない事だらけです。
■「日本の石仏」No.101(2003春号)の「赤痢流行と摩怛利神塔」(石田年子氏)に詳しい。
 
 
 
川村湊氏の「牛頭天王と消された異神たち 蘇民将来伝説」によれば、寛永寺の真如院覚深の「摩多羅神考」により、摩多羅神と摩多利神は同じ行疫神とされたことが書かれています。安楽騒動で天台宗が否定した摩多羅神(またらじん)を再度正当化するために、仏教の正当な神である七母女天(摩多利神)と同じとされたようです。
 
摩多羅神と摩多利神は名前が似ているだけで、全く異なる神です。たとえばインドの神である大黒天と日本の大国主命が同じ神とされたように。
 
奈良時代から神社に神宮寺置が置かれ、神仏習合化されたのは、各地を支配する豪族の要望からでした。民衆も後押しをしたようです。無理なく神仏の習合をなしたことが、日本人の智慧だったのでしょう。
 
しかし中世においては、私には理解できない秘訣・秘口訣・奥義が作られたようです。何でもかんでも結びつけるのは、どうかと思いますが。
 
明治になるとこれらの事に反発する神道側からの廃仏毀釈が推し進められ、国家神道となりました。このような運動はやり過ぎでした。後々の歴史を見れば一目瞭然です。
さらに各地の神社の縁起が書かれた物を見ると、意識的に歴史を改ざんした例を見ることがあります。
 
千葉県野田市の摩多利神塔
 
この地域は、利根川と江戸川に挟まれていたため、洪水に見舞われ、疫病に苦しんだ。  この表から明治30年の洪水により、赤痢大流行に困惑していたことが分かる。
摩多利神だけでなく、他の神仏にも、ひたすら祈願をしたようです。
〔※県立関宿城博物館には、洪水被害の資料が展示されている。
   千葉県野田市関宿三軒家143-4
   電話 04-7196-1400
   休館日:月曜日(ただし祝祭日等の場合は翌日)〕
 
野田市、関宿町をおそった、明治30年の赤痢大流行による調査の摩怛利神にしぼった内容。
当時の各罹病地区が行った「疫病封じ」は驚くほど多種多様なものであったと記されています。
  (関宿城博物館・研究報5掲載を一部変更して掲載)
 
「赤痢流行と摩怛利神塔」(石田年子氏)
 
「続・日本石仏図典」の摩怛利神〈2〉に、松村雄介氏の筆により「利根川流域の野田市域や守谷町域、水海道市域に近代前期とみられる神名塔が造立されている。
    
水海道市の遺品には「武州目沼郷・写・摩多利神」とある。埼玉県妻沼町の摩多利神社が、摩多利神信仰のセンターだったらしい。」  ………
     
妻沼町より利根川を介しての伝播かと理解したが、最近になって江戸川を挟んだ野田市の隣町、埼玉県杉戸町の目沼地区にも摩怛利神社が存在することを知り訪れてみた。……浅間神社と記され……お堂の中……嘉永4年9月造立の摩怛利神塔(自然石)が鎮座していた。……
    
江戸川、利根川、鬼怒川を渡っての勧請を思う時、幕末から明治にかけて杉戸・目沼摩怛利神社は「疫病退散の利益」の神として広く知られた神社ではなかったかと考えざるをえない。
疫病退散の銘も入ったお札が配られるが、……注目すべきことはお札の版木がこの社にあり、世話人さん達の手により刷られることである。
   
  と記されています。
 

千葉県野田市の摩多利神塔

No        場 所                造立年            造立者
1,関宿町新宿 個人宅     明治30年12月   山村氏
2,野田市阿部 羽黒神社  明治30年8月     天部中
3,野田市阿部 妙楽院前  平成10年(再建) 氏名15名
4,野田市阿部 個人宅林  明治30年          氏子中
5,野田市中里 川間農協前 (風化で不明)   (風化)
6,野田市中里 三社権現   (風化で不明)    氏名多数
7,野田市中里 個人宅     明治40年          大野氏
8,野田市船形 富蔵院     明治30年11月    船形上信仰者”
9,野田市東金野井 個人墓 明治33年3月      遠藤氏
10,野田市東金野井 個人宅 明治33年         □□氏

        野田市中里字阿部
        (野田市(元関宿町)木間ヶ瀬字新宿?。  関宿町は野田市に編入。)
       
        茨城県水海道市(常総市)  八幡神社境内摩怛利神塔
        茨城県常総市水海道橋本町 明治2年建立
        茨城県守谷町(守谷市)にも造立された形跡。
              以上 「赤痢流行と摩怛利神塔」(石田年子氏)より
 
 

摩多利神の像と文字石塔を祀る寺社など

 
羽黒神社  千葉県野田市中里字阿部
妙楽院   千葉県野田市中里字阿部  真言宗豊山派
 
JAちば東葛川間支店  千葉県野田市中里513   道路挟んで向側 
三社大権現神社   千葉県野田市中里字阿部
富蔵院   千葉県野田市船形1926  豊山派
    山門側にたくさんの石仏が祀られている。
 
 
           以上、旧関宿町
  
八幡神社境内摩怛利神塔        茨城県常総市水海道橋本町3329
    武州写目沼郷 摩夛利神塔 とある。
    明治二年三月の建立
  
浅間神社境内社・目沼摩担利神社     埼玉県北葛飾郡杉戸町大字目沼  
    元々は、富士塚だったのではないか。回りの土地より高くなっている。向かって右が浅間大神文字石塔。   
 

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『杉戸町史調査報告書第四集 寺院神社・神社編』には、「当社は目沼の人々が氏神として祀る神社である。創建はわからないが、近くの観音堂の所にあったものを、大正の初め頃に現在地へ移したものだといわれる。なお当社は、はやり病にききめのある神様として広く信仰されている。」

 
摩多利神社  埼玉県熊谷市(元妻沼町)妻沼1605近辺  聖天さんの約600m西  古墳の上
 
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※歓喜院(妻沼の聖天様)持ち   高野山派  リンク
      埼玉県熊谷市妻沼1627               
  
マタラ石祠  埼玉県熊谷市善ヶ島  善ヶ島神社
    麻摩多利神社古墳  埼玉県熊谷市大塚  市の資料にある。
    地元の人は知らないという。
摩多利神文字碑(向かって右)   埼玉県熊谷市石原町
  新島一里塚の向側  旧17号沿
 
摩多利神社  埼玉県入間郡越生町大谷
    日本カントリークラブ近く。六地蔵の奥にある。
 
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※埼玉県比企郡嵐山町志賀にもあったようだ
      志賀村絵図にある・明治5年。当時の地番は333番地あたり。
      大山祇命・山神宮・摩多利神・女鬼神とある。祠か。
 
摩多利神堂   埼玉県日高市南平沢   宮ヶ谷戸自治会館敷地
 
摩多利神文字石碑  埼玉県本庄市児玉町稲沢  明治二年十一月御鎮座
   発起人「木村三郎兵衛源家胤」氏は稲聚神社の社掌。
   西光寺(浄土)の道を挟んだ向側(南側)                                 
 
諏訪神社境内摩多利石碑   埼玉県本庄市堀田1059 or 297  明治19年
 
金剛寺・摩多利堂  群馬県前橋市関根町16  豊山派   
    三面の仏像(三面大黒天)   3月24日に摩多利神祭。
 
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  天保六年(1835)にお堂が創立された。   
 
 ※桃川小学校の上毛カルタ 群馬県前橋市荒牧町514
       カルタに摩多利神(関根町)
         ち 「チフスから村を救った摩多利神」
 
摩多利神文字塔  群馬県前橋市下小出町1丁目22番1号 赤城神社
   下小出町字曲輪の桃木川の端にあった。 
不動堂境内石碑  群馬県前橋市総社町野馬(野中町?)  安政5年
石碑  群馬県前橋市富士見町横室   安政2年

石碑  群馬県前橋市三河町   文治稲荷神社

摩多利神文字塔  群馬県藤岡市鬼石 馬形大神・社日五社命・摩多利神の三神

基石塔  群馬県藤岡市鬼石 馬形大神・社日五社命・摩多利神の三基石塔         
     久木沢から桜山の間のようだ。                                
 
摩多利神社  群馬県高崎市(元群馬町)  群馬町史に記載がある。
摩多利大神石碑  群馬県高崎市北原439
    北原神明宮境内  北原公民館の近く 南東
観音寺観音堂境内?摩多利堂(石祠)  群馬県高崎市北原  天台
    高崎市棟高町886-3にある観音寺薬局   
    高崎市棟高町473-1   おうでまんじゅうの向かいにも観音寺?
 
七母女天宮  群馬県伊勢崎市境東新井 
 
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摩多利神社   群馬県桐生市川内1丁目
   赤城神社(川内町一丁目552)の階段入り口       
 
高徳寺七母殿摩利支堂  高野山   群馬県邑楽郡大泉町古海531-1
   児島高徳が開基し、晩年を過ごしたと伝わる寺。天授6年(1380年)伽藍建立。100mほど離れた場所に高徳の墓がある。高徳が摩怛利(摩多羅神)尊像(三面大黒天)を安置した(児島高徳が古海に摩多利尊を安置して身を隠した・宮下家文書)。児島神社(古海775)には児島高徳が祀られている。児島高徳の墓は全国で9ヶ所あるという。
摩怛里神のお堂   群馬県渋川市祖母島  集落を見下ろす丘の上
摩怛利神王石碑   群馬県渋川市祖母島  個人宅  天保14年
 
摩多利神社  群馬県沼田市平原地区?
    (沼田市利根町平川? 片品村摺淵の対岸)

摩多利神社(摩多利尊社)   群馬県沼田市下川田町
    文化年間に悪病が流行し、遷流寺(浄土宗)14世の隆法住職が西国(おそらく高野山)から摩多利神を疫病除けとして勧請した。

    摩多利神は、三面六臂の石仏。 
 
 吾嬬(かづま)神社境内社・摩多利神社   群馬県吾妻郡中之条町山田572
    子安神社(左)と摩多利神社(右)が同じ境内社に祀られている。
 
摩多利神(石祠)   群馬県  長谷川家の畑 7月24日に祭礼がある。
摩多利神社石塔(文字碑)   群馬県
石祠  群馬県中之条町山田の吾嬬集落  吾嬬山
 
摩多利神社  栃木県佐野市(元田沼町)栃本町
    田沼東中(栃本町2287)南側の下田沼公民館敷地
宇都宮神社末社   栃木県佐野市白岩町328 摩多利神 本殿裏手の末社群
 
摩多利神碑  岩手県奥州市米里野里(えさし郷)
 
延命寺   新義真言宗  東京都葛飾区青戸8丁目24-29                     
    疫神(やくじん)様と呼ばれる摩怛梨天(摩徂利天=三面大黒)像。鎌倉時代に葛西城(青戸御殿)を領した青砥藤綱の守護神と伝えられる。          
  • ※青砥左衛門尉藤綱の逸話(Wikipediaより)
    かつて夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。「10文を探すのに50文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は応えて「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と。
摩多利神社  大阪府  隣接する地区に5社存在する。明治初期に勧請されている。
    泉佐野市に二ヶ所(大木、土丸)
    上大木では今も7月24日に大祭を行う。
    和泉国日根郡大土村大字土丸字神山(大正時代の旧郡・旧村)
          大阪府全誌に祭神・大国主命
    貝塚市に二ヶ所(秬谷、大川)
       大川に摩多利神跡。近くの会館?にお厨子が祀られているようだ。
          大黒天坐像 木造 明治。
    泉南郡熊取町和田  明治26年の勧請
       来迎寺の東約100m。狭い石段を30程上ると小さな祠。
高野山龍光院  和歌山県伊都郡高野町高野山147
    摩怛利神像(大黒天)紙本著色 江戸時代                                   
    高野山において弘法大師が住した。中院と称された。
京都市立芸術大学芸術資料館  紙本墨書摩多利神像 2枚 江戸時代
 
 
河川の氾濫など、劣悪な環境から疫痢、コレラなどの病気がどれだけ人々を苦しめたか、今では想像すら出来ません。
このため医療に頼るだけでなく、諸々の神仏に祈り、更に摩多利神など本来災いを運ぶ悪神を丁寧に祀ることにより、災いを避けようとしました。
菅原道真を祀ることにより、安寧を祈ったことに似た信仰があったわけです。
 
 
私は名前だけの日本石仏協会の会員ですが、先輩方の資料を利用させていただきました。御礼申し上げます。
あとはネットを検索して、かなり見つけることが出来ました。
関東だけは全て行きましたが、漠然として探し出せなかったところもあります。画像は、妙見シリーズ4  を参照して下さい。
 
三面大黒天(摩訶迦羅天)の掛軸 も参照して下さい。
 
 
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