円泉寺便り

真言宗智山派 成就院 埼玉県行田市

成就院は天正年間( 1573年から1592年)の開創です。

御本尊として不動明王を祀ります。

 

 

 

 

行田忍城下七福神の寿老人札所となっています。

岩をくり抜き中央に寿老人を祀り、弁財天など他の神々と一緒に参拝することが出来ます。

 

 

江戸時代の三重塔は、埼玉県内に三基のみです。県の指定文化財となっています。

塔内の葉衣観音(ようえかんのん)は、忍城主・阿部豊後守忠秋公の帰依仏です。

 

 

 

御住職は教区長をされています。

 

墓地には立派な永代供養塔がありました。

先代ご住職は、かなりこだわった造りとしたと話していたのを思い出します。

 

成就院 埼玉県行田市長野7618 地図link

※埼玉古墳群や古代蓮の里が近くにあります。

 

行田八幡神社 埼玉県行田市

行田八幡神社は「封じの宮」として知られているのだそうです。駐車場がほぼいっぱいの状態でしたが、他にも第二・第三駐車場があり、お正月や祭礼以外は車での参拝に困らなそうです。

私にとっては「ぼけ封じ」が一番の願いなのですので、御本社には多めのお賽銭を致しました。

 

源頼義・義家が佐間村田中に退陣したおりに、戦勝を記念して八幡神を勧請したと伝えられています。

行田町開設と共に田中の地から移されました。

 

境内には若い方々が多く参拝しています。カラフルな御朱印目当ての方もいました。

 

宮司家には昔から虫封じの祈祷が伝えられているそうです。

 

 

 

目の神社にも他の社にも沢山の絵馬が吊り下げてありました。

 

縁結びの「なで桃」です。桃は中国で不老長寿、日本では魔除けの果実とされているのだそうです。

 

愛宕神社は防火の神として信仰されています。

 

恵比寿と共に大黒天が祀られています。大黒さまは行田忍城下七福神の札所になっています。

 

お社の裏側にも回ってみました。よく整備された神社であることが分かります。

 

「行田市 花」で検索すると「行田市 花手水(はなちょうず)」が検索候補として表示されます。

行田花手水は、行田八幡神社が始めました。行田市 花手水 リンク

 

行田八幡神社 埼玉県行田市行田16−23    地図link

 

 

忍東照宮 埼玉県行田市

江戸時代は藩主・藩士により崇敬されており、さらに家康公の命日である4月17日は一般の人も参拝を許可していために大変な賑わいだったようです。

明治となり、忍城から藩主が東京に移住したため、残された士族が忍城内にあった東照宮を諏訪郭内の諏訪神社に本殿を移しました。

 

現在の本殿は文政6年の建立で、県重要文化財の家康公と大坂東照宮にあった像が祀られています。

 

 

東照宮は境内西側に東面して建てられていますが、諏訪神社は鳥居のすぐ近くに南面しています。

どちらも氏子が多くいたわけでありませんので、戦後は維持管理が大変だったそうです。

 

 

忍城と異なり明治に樹木の伐採を逃れることが出来ましたので、豊かな杜を残しています。

 

東照宮 埼玉県行田市本丸12-5(忍字諏訪郭) 地図link

 

忍城 行田市郷土博物館 埼玉県

 

成田氏は現在の熊谷市上之に平安中期より移住し、鎌倉時代には御家人として活躍しています。領主となるなど力を蓄えてきました。

室町時代の文明11年(1479)には忍城が存在していたようです。

豊臣秀吉による小田原の北条氏討伐により、忍城は最後には開城せざるを得ませんでした。

江戸初期まで関東の名族として知られていたのです。

 

映画「のぼうの城」は成田長親を主人公にしています。成田長親ウィキペディアlink

歴史的には異なる部分もあるのですが、とても面白い映画でした。。

北条氏の配下であった成田氏は城主・成田泰季が小田原に赴きましたが、一族の長親は進軍してきた石田三成に忍城に籠城しました。

石田三成は忍城を水攻めにするため、約11㎞もの堤を完成させています。

しかし、小田原が落城すると最後まで抵抗していた長親も開城せざるを得ませんでした。

石田堤ブログlink

秀吉の軍は備中高松城、紀伊太田城でも以前に水攻めを行っています。

 

忍東照宮の案内板より

 

江戸期には家康の四男の松平忠吉が忍藩10万石の藩主となり、後に寛永16年(1639年)に老中阿部忠秋が入り拡張整備が行われています。

明治になる徳川の重鎮であったために全てを取り壊すよう命令されています。

費用を捻出できず、入札による払い下げとせざるを得ませんでした。

かつては行田などの各地に忍城の建物が残されていましたが、現存するのは加須市の不動岡総願寺の六ツ門のみとなっています。

 

行田市郷土博物館と忍城御三階櫓に向かいます。

城跡にあるのは、新しい施設ばかりです。

 

 

行田市郷土博物館

 

 

残念ながら忍城に関する展示は、撮影が禁止されていました。

帰りに「常設展示解説図録」を求めて思い出しています。

 

行田市の足袋の製造工程や昭和初期から戦後の一時期までの物が展示されていました。

 

特に子供の時を思い出す玩具は、懐かしく思い出されます。

私はベーゴマや野球は苦手でした。

 

忍城御三階櫓

 

各階から外を眺めることが出来ます。三階からの外の景色です。

 

三橋美智也さんの『古城』が浮かびました。

どこの城とは言われていませんが、名曲だと思います。

 

忍城の鐘

 

東門水郷

堀には沢山の鯉が泳いでいます。

 

忍城御三階櫓の南側や橋を渡り羽生市産業文化会館に向かう途中には、数多くの鉢植えの花がありました。

何人もの人がスマホで撮影をしています。私も何枚も撮影して楽しんでいました。

面白い催しです。

「行田市 花」と検索すると、「行田市花手水(はなちょうず)」の検索候補が出てきます。行田花手水weekカレンダー リンク

カレンダーに行う日がありましたが、忍城と行田八幡宮は、通常の期間も行っているようです。

 

忍城跡 埼玉県行田市本丸17 地図link

久伊豆神社 埼玉県行田市

久伊豆神社は南側の長久寺と共に文明年中(1469~1487)、忍城の鬼門よけとして創建されています。

当時は長久寺が別当でした。

 

二の鳥居の先には行田市の指定文化財の九尺藤がありました。安部豊後守手植えになるものです。

参拝するなら、花の頃が良いでしょう。

 

他の案内板には市指定書籍の勝海舟書「大幟」が保存されているとかかれていました。

 

さらに進と手水舎がありました。

花手水となっており、椿や水仙などの他にひな人形・七福神宝船などの飾りが置いてあります。

行田市は行田八幡宮などが中心となり、花手水に力を入れていますが、ここにもありました。行田花手水link

 

※当寺(円泉寺)も少ない花ですが、花手水を行っています。

 

社殿に向かいます。

祭神は大己貴命・事代主命ですが、数多くの神々も祀られています。

 

 

 

摂社の赤飯伊奈利大社です。

摂社とは思えない立派な神社です。

 

 

久伊豆神社 埼玉県行田市桜町2-20-35 地図link

 

真言宗智山派 長久寺 埼玉県行田市

行田市における真言宗智山派寺院として、一番の格式ある寺院です。

武蔵国忍城主成田顕泰の開基で、忍城の鬼門よけとして、成田氏の祈願寺としての役割がありました。

武運長久から寺院名となっています。

 

文禄元年(1592年)に忍城主となった松平忠吉の帰依も受けています。

江戸期になって、新義真言宗の学問所にもなりました。長久寺ウィキペディア

 

すぐ前を秩父鉄道が走っています。

 

駐車場から一旦表に出て、参道から参拝致しました。

緑の濃い境内です。手入れや掃除が大変そうです。

 

まっすぐ山門に向かいます。

 

 扁額を見ると「僧正 運敞」とありました。

真言宗智山派・総本山智積院における江戸期の大学者です。運敞僧正(1614~1693)の亡くなられた日には、一山僧侶が運敞蔵(うんしょうぐら)の前で法養を行います。

智山派における他の大学者でも、そのような法要をすることがないのです。智積院 運敞僧正忌

運敞僧正は延宝4年(1678)立ち寄っていますので、その折り書かれたようです。

ここ数年の寺社参拝において、この扁額は一番嬉しいことでした。

 

長久寺御本堂

御本尊は胎蔵界大日如来です。

格式の高さを物語る立派な御本堂でした。

 

長い歴史と格式ある寺院であることが、説明を読んでいただければ分かると思います。

 

 

 

六地蔵など、あちこちに石仏が祀られています。

ここでは左から地蔵菩薩・阿弥陀如来板碑・地蔵菩薩と思います。

 

親切なお婆さんが、お寺や境内の案内をしてくださいました。

スマホで撮した境内の写真をには、御本堂・諸堂・境内の木々など沢山写されています。

ここの公孫樹(いちょう)は、行田市指定文化財になっており、秋には黄色い葉が一面に落ちて、見事だとスマホを見せながら説明してくれました。

但し、朝8時前に行かないと、すべて掃かれてしまうので、早くお寺を参拝するそうです。

他にも市の文化財に絹本着色両界曼荼羅・紙本着色十二天画像・大般若経があります。

 

 

芳川波山の墓です。

忍藩主松平忠堯に招かれ、文政9年に藩校進脩館で藩士の教育を行いました。芳川波山(埼玉県ゆかりの偉人)

お婆さんに教えていただかなければ、気がつくこともなかったでしょう。

行田における有力な資産家の墓石もありました。

 

庫裏の前には池があります。鯉や金魚が泳いでいました。

植木の手入れも大変だと思います。

 

書道教室・写経会・ヨガなどもおこなっています。

お婆さんのお陰で、御住職にご挨拶を致しました。

とても若い御住職で、調べてみると行田市のJCでも活躍していました。

 

境内南側は、道を挟んで秩父鉄道「東行田駅」がありました。

 

長久寺 埼玉県行田市桜町2丁目20−44 地図link

 

古城天満宮 羽生城跡 埼玉県羽生市

古城天満宮

 

古城天満宮は羽生城跡にある神社です。藤原秀郷が西暦879年に創建したと伝えられています。

しかし秀郷は寛平3年(891年)に生まれ、天徳2年(958年)に亡くなられています。

 

菅原道真は承和12年(845)に生まれ、延喜3年(903)に亡くなられました。

始めて菅原道真を祀ったのが京都の北野天満宮で、天暦元年(947年)創建になりまので、あり得るとすれば天暦年間以降でしょう。

 

 

精霊殿落雷事件イラスト(円泉寺蔵)

 

大宰府において道真死後に落雷など各地で災害が合い続きました。

延長8年6月26日(930年)、清涼殿に落雷があり、菅原道真を陥れた大納言民部卿の藤原清貫などが、亡くなられたり重傷を負いました。

落雷に遭ったわけではありませんが、醍醐天皇は三ヶ月後に亡くなられています。

これらのことから道真が雷神となって災いを起こしたと信じられたのです。精霊殿落雷事件ウィキペディアlink

これらの災いは菅原道真の祟りと信じられ、村上天皇の天暦元年(947年)京都北野に壮大な社殿を建設し、道真公を祭神として祀ったのです。現在の北野天満宮です。

天神とは雷神のことでもありました。

学問の神さまとして信仰されるようになったのは、後々のことです。

 

 

 

羽生城が広田直繁・木戸忠朝の兄弟により開かれたのが、天文年間(1532年から1555年)の中頃です。

武家家伝ー木戸氏によると、直繁は木戸氏の家名を継がず、広田氏の名跡を継いで広田式部少輔と名乗りました。

広田氏は菅原道真の後裔と伝えられています。

武家家伝ー木戸氏link

 

直繁の子・為繁は菅原氏を名乗っていますので、広田直繁・菅原為繁の代に羽生城鬼門除けとして、先祖でもある天神社を祀ったのかも知れません。

 

 

なかなか立派な座牛がありました。

 

公園と碑のそばにありますが、本来は参道に面してあったのだと思います。

 

 

次に向かう途中に天満宮の鳥居が、南西方向の道路上にありました。

この道路が元々の参道であったのかも知れません。境内の石像物は参道にも建てられていた可能性もあります。

 

 

 

調べましたが、この天満宮に関する資料は、当時の町長・三木辰五郎氏の記した文が、もっとも詳しい資料でした。

しかし、改めて縁起を書き直す必要があると思います。

羽生市北荻島の天神社も藤原秀郷が祀ったと伝えられています。

 

 

羽生城跡

ウィキペディアによると築城時期は、

『新編武蔵風土記稿』では、弘治2年(1556年)、木戸忠朝によるものと記している。ただし、『風土記稿』の説を裏付ける資料は存在せず、詳細は定かではない。一方、小田原安楽寺に安置されている三宝荒神像には広田直繁と河田谷(木戸)忠朝の連名で「武州太田庄小松末社三宝荒神、天文五年丙申願主直繁、忠朝」と記されていることから、天文5年(1536年)の時点で直繁が城主を務めていたと推測されている。なお、直繁と忠朝の両者は兄弟である。

とあります。

 

 

後北条氏の攻撃を受けて落城後は成田氏の支配のとなり、豊臣秀吉による後北条攻略など戦いにより城を放棄しています。

江戸時代となり、大久保忠隣の領地となりましたが、忠隣改易後に廃城となりました。

 

 

忍城と同じく沼に囲まれた、守りに徹した城であったと思います。忍城ブログlink

城に関する遺跡は残されていません。

羽生城ウィキペディア

 

古城天満宮 埼玉県羽生市東5丁目7-1 地図link

 

豊川稲荷 荼枳尼天図

 

読み間違いかも知れませんが、おそらく豊川稲荷の荼枳尼天だと思います。豊川荼枳尼天画像検索link

三州は愛知県の西三河地域です。豊川市も含まれます。

 

 

 

豊川閣を現在使用している図もありました。豊川稲荷で発行した小さな掛軸と思います。

※豊川稲荷東京分院のブログです。ブログlink

 

豊川稲荷 愛知県豊川市豊川町1 地図link

 

静御前 しづやしづ しずのおだまき くりかえし

 

白拍子の静御前が源義経を慕い、頼朝の前で「しづやしづ しずのをだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな」詠み舞いました。

有名な場面です。

 

 

静の毅然とした態度が、のちのちまで語り継がれました。

 

 

さらに義経を慕う歌を唄います。

「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」

 

 

義経との子は殺されましたが、母の磯禅師と共に都へ帰ることが出来ました。

何時どこで亡くなったのかは分かりません。各地に静御前の墓とされる場所があります。

 

白梅図 中国画掛軸

 

今の時期にふさわしい白梅の掛軸です。

 

 

 

 

 

中国の画家が描いているようです。

作者は文翰(ぶんかん)と読むのでしょうか。

 

当寺の白梅は、現在満開もあれば蕾の多い種類もあります。

境内の白梅です。

 

 

紅梅

 

まだまだ楽しめそうです。

 

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